鈴木大拙が出会った人々(10)西田幾多郞
学問や芸術は何のかのといつた所で、人生の真の味は死生の間に出入する至誠一念の生活の外になしと存じ候。
西田幾多郎(大正2年10月3日 田部隆次宛書簡)
シカゴの大拙・金沢の西田
共に明治3年に生まれた西田幾多郎と鈴木大拙ですが、西田は75歳、鈴木は96歳の生涯でした。二人の縁は石川県専門学校(1)において始まりましたが、その関係は終生続きました。
西田幾多郎と鈴木大拙の交流については、既に多くの研究者によって関連著作が出版されています。学生時代の関係が終生続くということは珍しくないかもしれませんが、彼らがそれぞれ昭和期の日本哲学と禅学研究を代表する学者であったことから、彼らの関係は日本思想界にとっても注目されることとなったのです。
鈴木大拙が円覚寺での参禅修行ののち、渡米してシカゴのオープンコート社(2)で編集者として働いていた頃、西田幾多郎は帝国大学(3)選科を卒業して、金沢や山口での教師の職を転々とし、そうして故郷金沢の第四高等学校教授となります。大拙居士がアメリカにいる間、西田は四高の教授職にあって、雪門老師(4)に参禅していたのです。
東京で共に働く
しかし、シカゴと金沢と、遠く離れていた二人は明治42年、共に東京の学習院(5)で働くこととなりました。アメリカにいる頃から大拙居士は自分の将来について、西田幾多郎に手紙で相談をもちかけています。自分は外交官になればよいのではないかと相談する大拙居士に対して、西田は思想界ではたらくには英語の教師が適しているのではないかと返答しています。
そうした考えに基づいて、西田は英文学者の田部隆次(6)を通じて、神田乃武へ鈴木大拙の職を紹介してくれるよう依頼しています。この神田乃武とは当時の学習院における英語の主任教授です。明治初頭に渡米してアマースト大学(7)を卒業したのち、日本の英語教育に生涯をかけた人物です。西田が手紙を送った田辺隆次も外ならぬ神田の推薦によって学習院女学部に職を得た人物でした。大拙居士と西田が在籍していた頃の帝国大学文科大学において、ラテン語ギリシア語を教えていた人物でもあり、西田はこういった縁を頼りに大拙居士の就職の根回しをしていたのです。
大拙居士の年譜には、同郷の藤岡作太郎(8)や吉田好九郎の薦めによって学習院に入ったとされていますが、こうした西田の働きも効果を発揮していたのかもしれません。
そして大拙居士の妻となるビアトリス・レーン(9)が来日すると、西田は彼女の就職についても心配をして、やはり田部に相談して学習院女学部の英語講師の枠を問い合わせています。西田自身も明治42年に師である北条時敬(10)の推薦によって学習院のドイツ語教授となります。しかし哲学者として活動したい西田にとって、ドイツ語教師は本分ではなく、翌年には京都帝国大学(11)の倫理学助教授に籍を移します。西田にとっては、京都こそが生涯において最も活躍できる場所となりました。
京都で共に働く
西田の事情は、大拙居士にとっても同様でした。大拙居士にとっては仏教の研究と実践が人生の眼目であったことは間違いありませんが、当時の学習院にあってそれは叶わなかったのです。釈宗演老師(12)が大正8年に遷化されたことも、東京を離れることの後押しになりました。
西田は再び大拙居士の就職準備に動きます。今度は大拙居士を大谷大学(13)に招こうとしたのです。この大谷大学招聘については、浄土真宗の佐々木月樵(14)の推薦があったことは既にご紹介しましたが、この佐々木月樵とともに動いていたのが西田だったのです。
西田の日記を見ると、学習院の教授時代に、暁烏敏(15)や多田鼎(16)といった清沢満之の門下の学者たちとたびたび会っている記述がみられます。さらには彼らの私塾であった浩々洞(17)を訪れて、佐々木月樵とも会っています。おそらく両者の縁はこの頃に始まったものと推測されます。
明治43年に西田が京都帝国大学に移籍すると、その翌年には西田は真宗大谷大学の非常勤講師となっています。このとき西田を招聘した人物の一人が佐々木月樵だったのです。佐々木は自ら西田の講義を聴きに行ったとも伝えられています。
そして鈴木大拙と佐々木月樵の縁も、明治44年にまでさかのぼります。覚如の『親鸞聖人伝絵』(18)を英訳すべく、佐々木月樵と鈴木大拙がともに作業し、The life of Shonin Shinran が出版されたのです。これは推測ですが、おそらく大拙居士と佐々木月樵をつなぎ合わせたのは、やはり西田だったのではないでしょうか。
そうしておよそ10年の後、西田と佐々木がともに鈴木大拙を大谷大学に招くこととなるのです。西田は京都における大拙居士の住居まで配慮して、都合よき場所を探しています。こうして大拙居士は大谷大学に移り充実した研究生活を送れるようになったのです。
思想の交差点
こうした大拙居士と西田幾多郎の私生活における交流はやがて思想的な交流としても現れてきます。ここでは、西田幾多郎の「矛盾的自己同一」と鈴木大拙の「即非の論理」という二つの言葉を取り上げたいと思います。難解な言葉ですが、私なりに読み解いてみます。
神や仏というのは、完全な存在であって時間や空間の制限も受けない無限な存在である。それに対して人間というのは、時間や空間の制限を受ける有限な存在である。神や仏は無限の生命を持っているが、人間は有限の生命しかない。このように神仏と人間とは全く正反対の存在です。人間は神仏ではなく、神仏は人間ではありません。
しかし、この全く正反対の神仏と人間が、実は同一の存在なのだ、というのが、宗教の真髄であるというのです。このことを、矛盾したものが同一であると表現すれば、「矛盾的自己同一」となります。このことを、互いに異なるもの(非)が互いに一致(相即)していると表現すれば「即非の論理」となります。
無限なる神仏と有限なる人間は、全く同一ではありませんが(矛盾・非)、まったくかけ離れた別の存在でもない(同一・即)ということなのです。白隠禅師は「坐禅和讃」の冒頭に「衆生本来仏なり」と喝破しましたが、まさしく人間は本来の自己(仏)と現実の自己(凡夫)の二重の存在であり、その本来性と現実性の関係を西田哲学では「矛盾的自己同一」、鈴木禅学では「即非」と表現しているのです。
親友の死
こうした奥深い宗教的思索は、共に京都・鎌倉という場所で作られました。京都大学を退官した西田は、昭和8年より鎌倉に居を構え、夏と冬を鎌倉で過ごすようになります。鈴木大拙も大谷大学の休暇には円覚寺の正伝庵に戻るという生活をしていましたので、二人は鎌倉においても互いに訪問し合い、変わらぬ友情を守っていました。
しかし昭和20年6月7日、西田幾多郎はこの鎌倉の自宅で尿毒症のため急逝します。このときの大拙居士の悲嘆ぶりは葬儀の際に撮られた写真を通じてありありと伝わってきます。親友の死にすべての体面を忘れて悲嘆しつくしていたと伝えられます。こういった大拙居士の様子に私はむしろ「至誠」(この上ないまごころ)が現われているように感じます。
西田は日本を代表する哲学者として今に知られています。しかし、大拙居士との交流だけを見ても、その人柄のこまやかさが伝わってきます。まさしく至誠の一念を体現すべく力を尽くした人でありました。
同郷の幼馴染であること。同じ禅を志した中であること。互いに思想の交流をもったこと。いずれも二人の関係を深めたことに違いありません。しかし、両者の関係が現在にあってもなお人の心を魅了するのは、両者がともに「至誠」の人であったということに尽きるのではないでしょうか。
『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第11回「安宅弥吉」は、2024年3月20日頃に掲載予定です。
〔脚注〕
- 石川県専門学校:加賀藩の藩校である明倫堂や維新後に設立されった金沢中学校を母体として存在した学校。明治20年に第四高等中学校に、さらに明治27年には第四高等学校に改変されていき、現在の金沢大学に連なる。
- オープン・コート社:エドワード・へゲラーの経営するアメリカの出版社。
- 帝国大学:現在の東京大学文学部。明治19年に発布された帝国大学令によって、東京大学は帝国大学へ改編され、そこに法・医・工・文・理の五分科大学が設立された。当時帝国大学は東京のみだったため、単に帝国大学と称されたが、のち時代を追って改編が重ねられ東京帝国大学、東京大学へと発展していき、現在に至る。
- 雪門玄松:臨済宗の僧(1850~1915年)。和歌山出身。相国寺の荻野独園老師の下で修行し、のち富山国泰寺に住した。北陸各地で洗心会と呼ばれる禅会を行ない、出家在家問わず多くの修行者を指導した。戒律を守ること堅固であったため、山岡鉄舟より「禅門の律僧」と称された。
- 学習院:弘化4年、京都御所の東側に設置された公家の学問所が「学習院」と名付けられ、その名前が明治10年に設置された華族学校の名として継承された。明治17年には宮内省立の官立学校となり、戦後には華族教育を廃した私立学校となり、1949年には学習院大学となった。
→学習院大学の歴史 l 学習院大学
- 田部隆次《たなべ・りゅうじ 1875~1957年》:富山出身の英文学者。東京専門学校(現・早稲田大学)に進学し、さらに東京大学文科大学の英文科に入学した。そこに赴任してきたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の講義を受ける。その後金沢の第四高等学校の教員となり西田幾多郎と交流し、その後学習院女学部教授となる。恩師である小泉八雲の伝記を執筆したことに加え、『小泉八雲全集』の翻訳・編集に携わる。
- アマースト大学:アメリカのマサチューセッツ州にある私立大学。1821年創立。同志社大学を創立した新島襄や、キリスト教思想家である内村鑑三も学んだ。
- 藤岡作太郎《ふじおか・さくたろう》:石川県出身の国文学者。石川県専門学校、第四高等中学校にて鈴木大拙、西田幾多郎と同級生で、加賀の三太郎の一角。東京帝国大学文科大学国文科に入学し、のちに第三高等学校教授、東京帝国大学文科大学助教授となる。『国文学全史 平安朝篇』の執筆によって文学博士となるが、ぜんそくのため39歳の若さで亡くなる。
- ビアトリス・レーン:第7回にて詳述。
- 北条時敬:第1回にて詳述。
- 京都帝国大学:現・京都大学。明治30年に日本で二番目に創立された帝国大学。
→京都大学
- 釈宗演:第4回・第5回にて詳述。
- 大谷大学:京都市北区にある私立大学。1922年に大学令によって認可された。東本願寺の学寮をその淵源とする。
→大学の歴史 l 大谷大学
- 佐々木月樵:第8回にて詳述。
- 暁烏敏《あけがらす・はや 1877~1954年》:浄土真宗大谷派の僧侶。現在の石川県白山市にある浄土真宗明達寺の長男として生まれた。19歳で真宗大学に入学し、清沢満之の宗門改革運動に参加する。明治32年、22歳で清沢満之本人と出会い、佐々木月樵や多田鼎らとともに浩々洞を開設し、清沢の死後は浩々洞の代表を引き継ぐ。明達寺に戻ってからは各地で講演活動を行い多くの信者を得る。
- 多田鼎《ただ・かなえ 1875~1937年》:愛知県出身の浄土真宗の僧侶。浩々洞のメンバーとなり、機関紙の発行に携わる。清沢が真宗大学の学監となったのに伴い、真宗大学教授に就任する。その後、千葉教院、三河同朋会を次々組織し、教化活動に従事する。その後、大谷派伝動院の初代院長となった。
- 浩々洞《こうこうどう》:清沢満之が東京で開いた私塾。1900年、浄土真宗の近角常観が欧米視察に出向いている間、本郷にある近角の留守宅を清沢満之が預かり、そこに若い真宗僧侶・学者が集まり求道的な共同生活を送った。曽我量深、金子大栄といった多くの著名な真宗学者が居並ぶ中、暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎の三人は特に「浩々洞三羽烏」と称されていた。
- 『親鸞聖人伝絵』:浄土真宗の宗祖親鸞の生涯を、曾孫の覚如がまとめた絵巻物。
写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
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