境内の桜

鈴木大拙が出会った人々(11)安宅弥吉

蓮沼 直應
2024/3/24

金石に生まれ実業家を志す

鈴木大拙居士の活動を支えた人物を多方面から紹介してきましたが、経済的支援という点でいえば、安宅弥吉の果たした功績は計り知れません。安宅弥吉は鈴木大拙と同じく加賀出身ですが、大拙居士よりも3歳年下です。
 
同じ石川県でも弥吉は金石の出身でした。14歳で石川県専門学校に入学し、在学中に第四高等中学校に再編されます。小さい頃から学校での成績は優秀で、肥料商を営んでいた父親は弥吉を東京帝国大学に入学させ工学士にしたいと願っていました。
 
しかし、第四高等中学校に在籍している間にその父親が他界してしまいます。それでも弥吉は工学士になる道を目指していましたが、あるとき、郷土金石出身の大富豪・銭屋五兵衛(1)の伝記を読み、自らも貿易商となる道を志すようになりました。

久徴館での出会い

商人の道を歩むことに決めた弥吉は中学校を辞め、上京して高等商業学校(2)に入学します。この頃、東京の本郷に北陸地方から上京した学生のための寄宿舎がありました。久徴館という宿舎で、同じく加賀出身の早川千吉郎(3)が館長を務めていました。当時の久徴館には、帝国大生や第一高等中学校生が多く在籍していましたが、彼らの多くは軍人や官僚を志望していて、実業家を目指す弥吉のような人物は少なかったといいます。そんな環境にあって弥吉が最も注目していた人物こそ、大拙こと鈴木貞太郎です。
 

当時謹厚篤学の哲学書生鈴木貞太郎君も在館せられしが、同君は畏敬すべき学者にて、爾来親交あり。君の紹介にて鎌倉円覚寺に赴き、釈宗演老師に見え、禅学に志すに至れり。

(安宅弥吉『回顧録』)

安宅弥吉と鈴木貞太郎は同郷ではありますが、その出会いは久徴館においてでした。同館には他にも優秀な学生たちが多く在籍していましたが、安宅が畏敬の念を抱いたのはそうした他の先輩ではなく鈴木貞太郎だったのです。円覚寺での参禅に情熱を燃やしていた大拙居士は、官僚や軍人を志望しない少数派として、安宅と近しい境遇にあったのです。
 

安宅弥吉の参禅

こうして大拙居士の紹介で円覚寺での参禅を始めた弥吉ですが、その後は勝峯大徹老師(4)の下で参禅を続けていきます。安宅は参禅修行において公案(5)の透過が早すぎて、却って修行に純一になれないことが惜しまれると述懐しています。古の禅僧たちの問答に対して余念を交えずに集中していくことで、その問答の本質を徹見していくのが公案修行の意義であるはずなのに、問答に心が集中しきる前に答えがわかってしまう、という珍しい悩みを抱いていたのです。
 
弥吉はその後、関西を拠点としたため、海清寺(6)の南天棒こと中原鄧州老師(7)の下で参禅を続け、自安居士という号を授けられました。このように安宅弥吉が禅の修行に取り組むようになったのは、単に大拙居士に紹介されたからではなく、もともと仏教に対する信心の篤い家庭環境だったことが背景にあります。安宅の父親は熱心な浄土門の信者で、少年の弥吉にも学校から帰ったあとには必ず百遍の念仏を称えさせたといいます。そうした家庭環境があったからこそ、熱心な仏道修行者であった大拙居士に対しても畏敬の念を抱いたのだと察せられます。
 

堅実な経営と経済援助

さて、安宅弥吉の商人としてのキャリアは日下部商店という会社から始まります。香港支店の支配人として貿易の現場に立ちます。当初、原糖の買い付けで大きな利益を得ますが、日露戦争による株価暴落によって日下部商店は倒産。安宅は独立して安宅商会(8)を創立します。たび重なる倒産の危機を乗り越え、弥吉の会社は経済界において確かな位置を占めるようになっていきました。
 
こうした安宅商会の発展の根柢にあったのは、堅実を重んじる弥吉の人柄です。弥吉は会社経営にあたっては、派手な投機はせず、小規模ながらも確実に成長していく銘柄を選び慎重に財産運用をしていくことで、着実に会社を大きくしていったのでした。
 
少年時代に大富豪・銭屋五兵衛に触発されて財界に身を投じることとなった弥吉でしたが、その商道は決して利己的なものではありませんでした。弥吉は自らが得た財産を、独り占有することを良しとせず、常に困窮している人間の支援のための手段としたのでした。彼の始めた育英事業は郷土の若者を助けましたが、それだけでなく多くの人が安宅の援助に支えられました。
 

大拙居士への経済支援

鈴木大拙に対する支援はその中でも特別でした。学生時代、久徴館で大拙居士と出会った弥吉は次のような誓約を立てます。それは、自分は貿易をして金持ちになるから、困窮しがちな学者となる大拙居士を支援する、といったものでした。
 
この約束は単に学生時代にありがちな大言壮語ではありませんでした。弥吉が財を築くにはいくばくかの時間を要しましたが、弥吉の安宅商会は関西経済界において着実にその地位を確立していきました。その発展の途上にあっても、弥吉は実際に大拙居士の禅学研究を経済的に支援しています。
 
大拙居士の最初の滞米生活の間、弥吉は限られた給料を工面して、アメリカの大拙居士に支援のための送金をしています。また、帰国後に大拙居士が大谷大学に勤めるべく京都に移る際には、住居の便宜もはかっています。加えて注目したい点は、弥吉が大拙居士の出版費用を支援したことです。
 
大拙居士は佐々木月樵(9)らと共に大谷大学内にEastern Buddhist Society(10)を設立し、英文雑誌The Eastern Buddhistを創刊、みずから主筆としてその執筆に加わりました。その英語論文をまとめたものが、Essays in Zen Buddhism(『禅論文集』)のシリーズです。これら一連の論文集を英語著作として出版して海外の大学や図書館に送ることは、東洋の仏教・禅を海外に知らせるという大拙居士の目的に直結するものでしたが、それを経済的に可能にしたのが他ならぬ安宅弥吉だったのです。
 

松ヶ岡文庫の建設

そして安宅弥吉による大拙居士への最大の経済的援助は松ヶ岡文庫の建設でした。この文庫はもともと円覚寺の釈宗演老師(11)の遺言に端を発するものでした。遺産の一部を文庫の建築費にあてるように宗演老師は遺言を残されましたが、実際に建設事業が具体化されたのは、太平洋戦争開戦が間際に迫っていた1940年のことです。大拙居士やビアトリス夫人(12)が蒐集した膨大な量の禅籍、仏教書を収蔵すべく、文庫の建設計画が動き出したのでした。

この文庫が独立した財団法人として発足するにあたり目的としたところは、仏教書の出版とその英訳、研究者の養成、そして特に「仏教文化の国際的宣揚」という点にありました。大拙居士も、戦後の世界文化に対して、日本に貢献できるものがあるとすれば、それは禅が最も有力であると明言しています。

こうした世界に禅を発信する機関としての松ヶ岡文庫の設立は、安宅弥吉の経済的援助によって実現しました。大拙居士は安宅に対しては終生感謝し続け、文庫の入り口には安宅を顕彰する碑も建てられました。
 

商人道と誠

ただし、大実業家である安宅弥吉とはいえ、これらの経済的援助が容易に為されたわけではありません。布施を意味する「喜捨」という言葉がありますが、弥吉はあえてそれを「苦捨」と称しています。経済的援助は決して容易なものではなく、自分自身にとって苦しいものではあるのは確かであるが、それでもなお、自分はそれを友人のために供するのだ、という痛切な覚悟が込められた言葉です。
 
鈴木大拙の語る禅は戦後のアメリカ社会でZENとして広まることになりますが、それが可能となったのは英文著作の出版や、それに携わる研究施設のお陰であることは間違いありません。そうした意味で「禅からZEN」への展開に、安宅弥吉という男の存在はまさしく不可欠であったのです。
 

商人道とは何ぞやと言へば、誠の一字の外に無いのであります。誠心誠意、偽らず欺かず、之れ商道の真諦であります。

(高橋弥次郎編『日本経済を育てた人々』より、安宅弥吉の言葉)

安宅弥吉は自らも禅に生きた人でした。彼の禅はまさしく商人道として発揮され、生涯にわたって盟友を助け続けました。学生時代の約束を終生果たし続けた彼もまた、「誠」の一念に生きた人物だったのです。
 
* 本稿を執筆するにあたり、安宅弥吉の令孫である安宅光雄氏から貴重な示唆を頂戴しました。この場を借りて御礼申し上げます。

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。2年間にわたる連載の最終回となる第12回「古田紹欽」は、2024年5月20日頃に掲載予定です


〔脚注〕

  1. 銭屋五兵衛《ぜにや ごへえ》:加賀国の商人(1773~1852)。安永2年(1773)、現在の金沢市金石町に生まれる。17歳で金融業を営む銭屋の家督を継ぎ、新たな事業を次々と展開し、江戸時代を代表する大海運業者となる。
    →石川県銭屋五兵衛記念館HP
     
  2. 東京高等商業学校:現在の一橋大学。明治8年に森有礼が設置した商法講習所に起源をもつ。その後東京商業学校と改称、さらに安宅が上京する2年前の明治20年に高等商業学校と改称した。
    →一橋大学
     
  3. 早川千吉郎《はやかわ せんきちろう》:金沢出身の大蔵官僚・実業家(1863~1922年)。東京帝国大学法科大学、同大学院を卒業したのち、大蔵省に入る。大臣秘書官や日本銀行管理官などを歴任。退官後、三井銀行専務理事や常務取締役となり、同行の発展に貢献した。
     
  4. 勝峯大徹《かつみね だいてつ》:江戸時代から明治時代の禅僧(1828~1911年)。三重県志摩郡に生まれ、伊勢の金剛証寺で得度し、各地で修行し、南禅寺派管長となる。八王子の広園寺に移り荒廃した伽藍の再建にあたる中、同寺に是道会、東京に興禅会を組織し、僧俗に禅を指導した。
     
  5. 公案:禅宗の修行において、師から弟子に与えられる問題。過去の禅僧の問答が用いられることが多い。
     
  6. 海清寺:兵庫県西宮市にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺第三世の無因宗因によって開かれる。
     
  7. 中原鄧州《なかはら とうじゅう》:江戸時代から明治時代の禅僧(1839~1925年)。現在の佐賀県に生まれる。各地を行脚し、徳山の大成寺、松島の瑞巌寺、仙台の大梅寺、西宮の海清寺に歴住。南天の棒をもって行脚したことから、「南天棒」と称される。
     
  8. 安宅商会:明治37年に安宅弥吉が創業した会社。個人商店から始まった会社だが、弥吉の堅実な経営のもと八幡製鉄所との取引などを通じて総合商社へと成長。弥吉が社長を退任した翌年、昭和18年に「安宅産業」と改称。総合商社として日本でもトップ10に入る売り上げを誇るも、原油価格の急変動などを原因に昭和52年に破綻。伊藤忠商事に吸収合併される。
     
  9. 佐々木月樵第8回にて詳述。
     
  10. Eastern Buddhist Society:東方仏教徒協会。大谷大学内に鈴木大拙他、浄土真宗の教学者らが設立した組織で、欧米に東洋思想を紹介すべく研究結果を英語で発信することを目指した。
     
  11. 釈宗演第4回第5回にて詳述。
     
  12. ビアトリス夫人:第7回にて詳述。
     

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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