雪の中の選佛場(坐禅堂)

鈴木大拙が出会った人々(4)釈宗演-前編

蓮沼 直應
2023/1/20

鈴木大拙の参禅の師

今北洪川老師が遷化されたのち、円覚寺派管長および僧堂師家の任に就いたのが釈宗演老師でした。そして鈴木大拙居士が長年にわたって参禅の師と仰いだのも、この釈宗演老師でした。
 
洪川老師と宗演老師の二人のことを大拙居士は晩年まで深く記憶に刻んでいました。宗演老師の没後10年となる頃、『近世禅林僧宝伝』(1)という、江戸時代から明治時代に活躍した禅僧の伝記集が刊行されます。大拙居士はそこで自分の二人の師の行状を改めて読むこととなりました。
 

殊に蒼龍窟(今北洪川師)や楞伽窟(釈宗演師)の伝記などを読んだ時は暗涙を催した。殊に後者に至りては今少し永生して居てもよかつたのだと深く溜息をついた。こんな事、あんな事を、話して見たい、聞いてみたいと、亡くなられて以来、何遍心に浮かべたかわからぬ。夢裡にも相見したことが幾度もある。「その中自分も死ぬるのだな」と思へば、そのとき再見の機会があると、自ら慰めたこともあつた。

洪川老師が世寿77歳だったのに対して、宗演老師は61歳でした。大拙居士は自身が深く慕う宗演老師の命数があと十年長らえたのなら、と、その「早世」を惜しんでいます。大拙居士にとって、釈宗演という禅僧はそれほど大きな存在だったのです。
 

妙心寺での就学

釈宗演老師は、安政6年(1859年)に現在の福井県大飯郡高浜町に生まれました。生家は一瀬家、幼名を常次郎と言いました。この若狭の大飯郡という地域は江戸時代以来、寺院の7割以上を臨済宗が占めており、それらの寺院から多くの高僧が輩出されました。
 
洪川老師の師である大拙承演禅師(2)と儀山善来禅師(3)はともに若狭国大飯郡大島村の出身です。この二人は5歳ほどの差があり互いに出家得度した寺は異なるものの、20代になると共に岡山の曹源寺(4)で修行する同門となります。大拙禅師が自分の下で修行する若き洪川老師を、儀山禅師の下に送り出したのも、故郷を同じくする弟弟子を信頼してのことだったのでしょう。
 
また若狭からは越渓守謙(5)という禅僧も出ました。この人物は儀山善来の法を嗣ぎ、妙心寺(6)に僧堂を開いた人物です。この越渓禅師は宗演老師の親戚関係にあり、宗演老師は12歳のときにこの越渓禅師の下で出家しました。宗演老師は少年ながら、新たに開かれた僧堂で、年長の禅僧たちに交じって僧として生活を始めたのでした。
 
しかし、越渓禅師はまだ少年である宗演老師を育てるために、多くの指導者に学ぶよう促します。明治4年、妙心寺は年少の僧侶に普通教育を施すべく、塔頭の万猷院に般若林(7)と呼ばれる学校を設立します。宗演老師はそこで仏教内外の典籍を学びました。そして同じく塔頭の大龍院の東胤和尚からは、『碧巌録』(8)の素読も習いました。
 

建仁寺・三井寺での就学

そうして15歳になると宗演老師は建仁寺両足院(9)の俊崖東佺和尚の下で就学します。俊崖和尚は学問に長けており、当初は宗演老師の他、生徒は数名だったものの、のちには数十人の雛僧が集まるようになり、両足院は「郡玉林」という名の学校組織となりました。
 
しかし明治8年10月、この俊崖和尚は亡くなります。残された弟子たちは追悼のため、12月上旬に臘八大摂心(10)という厳しい修行を敢行します。宗演老師は大変苦しい一週間の中で、禅の道に真実があることを確信したようです。
 
宗演老師はその後も滋賀県にある三井寺(11)の大宝律師から『俱舎論』(12)を学ぶなど、禅以外の教えも学びました。三井寺は天台宗のお寺でしたが、宗演老師は、律師から天台宗に宗旨を変えないかと勧誘を受けるほど優秀だったようです。
 

宗演老師の参禅

しかしやはり禅の道を求める宗演老師は、明治10年には、越渓禅師の勧めで、曹源寺の儀山善来禅師の下へ行きます。先述のようにこの儀山禅師は若狭出身の禅僧であり、越渓禅師の師匠でもあります。
 
しかし、この儀山禅師は翌明治11年3月に遷化されてしまいます。宗演老師が儀山禅師に参禅することのできたのはわずか1年という短い時間でした。その後、宗演老師は京都に戻り、そこで相国寺の荻野独園(13)、天龍寺の由理滴水(14)といった禅僧たちにも指導を仰ぎます。
 
最終的に、宗演老師が頼ったのは円覚寺の今北洪川老師でした。洪川老師は、宗演老師よりも30年前に曹源寺で儀山善来禅師に就いて参禅し、その法を嗣がれた方です。儀山禅師が遷化された頃、洪川老師は円覚寺の管長として鎌倉で活動を始めて間もない頃でした。
 
では何故、宗演老師は洪川老師の下を訪れたのでしょうか。それにはやはり多くの禅僧の勧めがあったのだと推察されます。相国寺の独園老師とは、共に相国寺で修行した友であり、天龍寺の滴水老師とは、共に曹源寺で修行した仲です。特に独園老師が洪川老師のことを高く評価していたことは、前回の記事でご紹介した通りです。そうした京都の禅僧たちの勧めによって、宗演老師は鎌倉円覚寺の洪川老師の下で参禅することとなったのでしょう。 
 
宗演老師は非常に宗教的才覚に優れた方で、臨済禅の伝統的な修行を23歳という類い稀な若さで終え、洪川老師から悟りを認められました。明治15年のことでした。20代の若さで臨済禅の修行課程を終えてしまった宗演老師ですが、老師はそのまま宗門の指導者となることを良しとせず、さらなる研鑽のため宗門の外へと飛び出していくこととなります。
 

宗門外での研鑽

明治18年9月、宗演老師は慶應義塾(15)に入ります。それは洋学、すなわち英語を学ぶためでした。これに対して師の洪川老師は反対します。洪川老師はもともと漢学者であり、禅宗の師家となったあとも、漢学を重んじる考えは変わっていなかったのです。そうした洪川老師にとって、弟子の宗演老師が英語を学ぶために寺を出ていくことは、容易に許すことのできないことでした。
 
しかし、このとき宗演老師を援助したのが、鳥尾得庵居士(16)でした。得庵居士は両忘会設立の頃から洪川老師のもとに通っていた居士です。彼が学費を援助すると申し出たことで、洪川老師も遂には弟子の決断を認めることとなったのです。
 
慶應義塾には3年在学する予定でしたが、実際には宗演老師は2年程で慶應を去ります。福沢諭吉(17)とも身近に接し、英語を学びはしたものの、宗演老師にはそれよりも大きな目的ができたのです。それがセイロン(スリランカ)に渡り南方の仏教を学ぶことです。それには福沢諭吉や山岡鉄舟(18)の勧めが影響したようです。
 
慶應義塾で英語を学ぶこともそうですが、日本の禅僧がセイロンの仏教を学ぶということもまた前例のないことでした。仏教の本源を求めてセイロンに渡るということに、洪川老師や他の同友たちは心配しながらも喜び送り出してくれました。そうして宗演老師は3年の間、遠いセイロンの地で仏教を学ぶこととなったのです。
 

宗演老師と多くの師

以上、釈宗演という禅僧がどのようにして学び、そして修行をしてきたのかということを、追ってきました。若き宗演老師を育てた一つの力は地縁です。若狭出身の優れた禅僧たちが互いに持っていた地縁が宗演老師の修行を導きました。そして、同門の修行者の縁、すなわち法縁というものも同じく強く老師を導きました。
 
一般の学校で英語を学んだり、さらには遠くセイロンへ渡ったり、師家として前例のない経歴に注目されることが多い宗演老師ですが、細かに見ていくとそれらを導く多くの縁があったことがわかります。宗演老師という人は少年時代から多くの師に参じ、多くの寺を訪ねていった方でした。これらの経験は、新たな地で新たな学びを得るための行動力を大きく養ったのだと思います。その行動力こそ、みずからを取り巻く多くの縁を最大限に生かすことのできる力だったのです。

(つづく)


 

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第5回「釋宗演 – 後編」は、2023年3月20日頃に掲載予定です


  1. 『近世禅林僧宝伝』《きんせいぜんりんそうぼうでん》:全三巻。明治23年に荻野独園によって撰された、江戸時代以来の日本の禅僧たちの伝記集。鈴木大拙が本文中で参照したものは、昭和4年に小畠文鼎によって撰された本書の続編『続禅林僧宝伝』のことで、本編と続編を合わせて訓注を施したものとして、能仁晃道訓注『訓読 近世禅林僧宝伝』(全2巻、禅文化研究所)が平成14年に刊行されている。
    →禅文化研究所/ 訓読『近世禅林僧宝伝』 全二巻
     
  2. 大拙承演《だいせつ じょうえん》:寛政9年 若狭国に生まれる。曹源寺の太元孜元に就いて参禅。相国寺に住する。安政2年遷化。
     
  3. 儀山善来《ぎさん ぜんらい》:享和2年 若狭国に生まれる。曹源寺の太元孜元に就いて参禅。太元禅師の後を継ぎ曹源寺に住した。他方、南宗寺、大徳寺に僧堂を開いた。明治11年遷化。
     
  4. 曹源寺《そうげんじ》:岡山県岡山市にある臨済宗妙心寺派の寺院。岡山藩主池田家の菩提寺。
     
  5. 越渓守謙《えっけい しゅけん》:文化7年 若狭国に生まれる。曹源寺の儀山に就いて参禅。のち相国寺の大拙に参じ、相国寺僧堂師家、さらに妙心寺天授院に新たに僧堂を開き師家となる。さらに明治4年妙心寺住持となる。明治17年遷化。
     
  6. 妙心寺《みょうしんじ》:京都市右京区にある妙心寺派大本山。延慶・正和年間に花園法皇の願によって創建。開山は関山慧玄。妙心寺派は臨済宗14本山の中で最大規模を誇る。
    →京都花園 臨済宗大本山妙心寺
     
  7. 般若林《はんにゃりん》:明治5年、妙心寺万猷院を仮校舎として設立された普通教育のための学校。東京に十山総黌が開設されたことにより、明治7年に一度閉校するが、十山総黌の廃止後、新たな形で再開する。今日の花園大学、花園高等学校の前身とみなされている。
    →学校法人 花園学園 花園中学高等学校
    →花園大学
     
  8. 『碧巌録』《へきがんろく》:『仏果圜悟禅師碧巌録』全10巻。中国宋代の禅僧、雪竇重顕が、唐代の禅者の伝記の中から百則の問答を選んでそれぞれに漢詩をつけた『雪竇百則頌古』に、同じく宋代の禅僧、圜悟克勤が前文と批評を加えたもの。日本臨済宗の修行においても、公案を扱う書として広く参照されている。
     
  9. 両足院《りょうぞくいん》:京都市下京区にある建仁寺の塔頭。開山は龍山徳見。
    →京都建仁寺塔頭 両足院
     
  10. 臘八大摂心《ろうはつおおぜっしん》:釈尊の成道に倣い、12月8日の鶏鳴までの1週間を不臥で過ごす坐禅修行。
     
  11. 三井寺《みいでら》:園城寺。滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山。創建は7世紀まで遡るが、9世紀に智証大師円珍によって中興されてより天台の寺院として広く名を知られてきた。
    →本朝四箇大寺 三井寺
     
  12. 『俱舎論』《くしゃろん》:『阿毘達磨倶舎論』。インドの説一切有部の論書で、日本では奈良時代に俱舎宗が特に依拠したが、その後も多くの宗派において広く仏教の基礎学として学ばれた。
     
  13. 荻野独園《おぎの どくおん》:独園承珠。文政2年 備前国児島郡に生まれる。相国寺の大拙承演の法を嗣ぎ、越渓守謙のあと相国寺住持となった。明治5年に教部省が設立されると、大教院の院長、さらには臨済・曹洞・黄檗の禅宗総管長となった。明治28年遷化。
     
  14. 由理滴水《ゆり てきすい》:滴水宜牧。文政5年、丹波国に生まれる。19歳で曹源寺の儀山に参じ、のちに天龍寺の師家となる。明治4年天龍寺派管長、さらに翌年には禅宗三派の総管長となる。幕末の戦火で失われた天龍寺の堂宇再建のために尽力する。明治32年遷化。
     
  15. 慶應義塾:1858年(安政5年)に福沢諭吉が開いた蘭学塾、英学塾がもととなり、後年三田の地に慶應義塾が開設された。西洋の学校制度にならった近代私学校として始まった。
    →慶應義塾
     
  16. 鳥尾得庵《とりお とくあん》:鳥尾小弥太《こやた》。弘化4年、長門国萩に生まれる。幕末期には奇兵隊に入り、戊辰戦争を戦う。維新後は兵部省に入り、陸軍中将まで昇進した。退役後は、反欧化主義の立場から国家主義運動に従事した。明治38年没。
     
  17. 福沢諭吉《ふくざわ ゆきち》:天保5年、摂津国に生まれる。幕末期より啓蒙思想家、教育者として活動し、『学問のすヽめ』、『文明論之概略』などを著した。慶應義塾開校の他、日本の近代化を支える組織の創設にも尽力した。明治34年没。
     
  18. 山岡鉄舟《やまおか てっしゅう》:山岡鉄太郎。天保7年、旗本小野高歩の子として生まれる。幕末維新の折には、江戸城無血開城に貢献した。書道、剣道に通じ、さらに禅をも修めた人物。明治21年没。

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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