紅葉の円覚寺境内

鈴木大拙が出会った人々(9)西田幾多郞

蓮沼 直應
2023/11/22

禅学者と哲学者

大拙居士こと鈴木貞太郎、そして寸心居士こと西田幾多郎、この二人は近代日本を代表する思想家であると言って間違いありません。大拙居士は禅学者で寸心居士は哲学者ですので、互いに本領とする学問領域が異なります。現代のアカデミズムにおいて、禅学と哲学とを比較してみると、強いて接点を求めることはできますが、ほぼ別の学問と言ってよいでしょう。

 
しかし、大拙と寸心という二人の居士が求めた学問の内容は、実は同じところを目指していたと言うこともできます。大拙居士の学問は、禅を中心として、広く仏教を扱うものですので、大拙居士の著作には禅語や仏教語が多用されます。他方、寸心居士の学問は、古代ギリシャの哲学から始まり、ドイツ観念論哲学(1)、さらには当時最先端だったアメリカのプラグマティズムの哲学に至るまで、浩瀚《こうかん》な哲学史の用語で彩られています。

 
彼らの著作はそれぞれ、表面的には全く別々の内容を扱っているように見えますが、この二人の学問には、根柢において相通じるものがあります。その共通項ともいうべきものが「禅」でした。二人は青年時代を同じ学校に学んだ同級生であったことに加え、彼らは共に禅の道を実践した道友でもあったのです。



 

石川県専門学校の同級生

大拙居士と寸心居士が机を並べて学んだのは、石川県専門学校(2)という学校です。のちに第四高等中学校、第四高等学校へと改編されていった学校です。他にも、藤岡作太郎、金田良吉(山本良吉)(3)といった学友がいました。
 
特にこの藤岡作太郎は、国文学の分野で活躍した人物で、のちに東京帝国大学で助教授として教鞭を振るうも、若くして病に倒れた夭折の英才です。この藤岡作太郎と、鈴木貞太郎、西田幾多郎とを合わせて、「加賀の三太郎」と称します。皆、明治3年に生まれ、郷土加賀を代表する学者となったのです。
 
当時は日本の教育行政において、学制が整えられる途上の時期で、大拙居士は石川県専門学校初等中学科というカリキュラムに12歳から17歳まで在籍していましたが、西田は16歳の頃に入学してきたようです。十代半ばの少年たちとはいえ、北陸地域を代表する優秀な学生たちでしたので、漢文や英語に関しては並外れた学識をもっていました。興味深いことに、彼らは自分たちで「我尊会」というサークルを作り、そこで自作の漢詩を発表するという活動をしていました。
 
鈴木貞太郎は、第四高等中学校になってすぐ、父の死による経済的困窮を理由に学校をやめていますが、この頃、西田幾多郎が鈴木貞太郎のことを詠んだ漢詩が二首残されています。
 

晩風微動清涼催  晩風微動し清涼催す
明月懸空似玉珠  明月空に懸かり玉珠の似し
哲学妙玄人無識  哲学妙玄人の識るなし
清宵月下夢韓図  清宵月下 韓図を夢みる

韓図とは哲学者カント(4)のことです。夜、月が上り、ゆるやかな風が吹く中、カントの哲学書を読んでいる、そんな光景が想起される詩です。
 

除去功名栄利心  功名栄利の心を除去し
独尋閑処解塵襟  独り閑処を尋ね塵襟を解く
窓前好読道家冊  窓前 好読す 道家の冊
月明清風払俗塵  月明るく清風 俗塵を払う

こちらの漢詩では、世俗的な功名心を捨てて、独り静かなところで道教(5)の古典を読みふけっている様子が詠われています。短いながらも鈴木貞太郎の少年時代を彷彿とさせる好資料です。単に同級生であったということ以上に、西田が鈴木貞太郎に若い頃から一種の尊崇をもっていたことが窺える内容です。



 

西田幾多郎の学生時代

そして彼らが学ぶ石川県専門学校に、数学教師として赴任してきた人物こそ、北条時敬です。北条については本連載の第一回でご紹介しました通り、金沢の学生たちに禅を伝えた人物です。この北条時敬の影響もあって、大拙居士は国泰寺(6)において最初の参禅を試みたのでした。
 
しかし、この北条を直接の師と仰いで深く関わったのは、大拙居士よりも西田幾多郎でした。西田は書生(7)として北条の自宅に住み、学問のみならず日々の生活の上でも指導を受けたのです。そのためのちに哲学者となる西田も、この時期には数学者の道を勧められていました。熱烈に禅を志した北条の門下にあったものの、この頃の西田幾多郎は大拙居士のようにすぐに参禅をしたわけではありませんでした。

西田幾多郎は、鈴木貞太郎の退校ののちもしばらく第四高等中学校に通っていました。しかし数年後、新たに赴任してきた校長によって、学校の雰囲気が武断的なものへと改められていったことで、結局西田も中退を決断します。
 
西田は東京に出て、明治24年9月帝国大学文科大学哲学科(8)の選科に入学します。この同じ年に、既に大拙居士は東京専門学校(9)に入学し、7月には円覚寺での参禅を始めています。
 
大拙居士のあとを追うように西田は円覚寺に来ています、西田は明治24年11月には円覚寺の今北洪川老師の下で参禅しています。他方、大拙居士も明治25年になると、西田が在籍している帝国大学文科大学の選科に入学しています。
 
これら、西田の円覚寺における参禅も、大拙居士の帝国大学における勉学も、長く続けられることなく短期間で終わっています。しかし、こうした年譜を見ると、故郷を離れた21歳の青年たちが、お互いに影響を与え合って人生を切り拓こうとした強い絆を感じることができると思います。


 

西田幾多郎の参禅

西田幾多郎の本格的な参禅は結局、円覚寺ではなく、金沢においてなされました。明治27年に帝国大学選科を卒業した西田は、故郷金沢において教師の職を得ます。そうして第四高等学校の嘱託教諭として勤める傍ら、富山の国泰寺の雪門玄松老師(10)に参禅するようになりました。この頃、雪門老師は富山を離れ、金沢に洗心庵(11)と呼ばれる場所に住んでいたため、西田もたびたび参禅することができたのです。
 
西田が禅を実践するようになった直接のきっかけは、やはり親友の大拙居士にありました。西田が金沢に戻った頃、大拙居士は単身アメリカに渡り、ポール・ケーラスの下で東洋古典の英訳に孤軍奮闘していました。かつての釈宗演老師とポール・ケーラスのように、彼らの書簡は太平洋を幾度も往復し、互いの近況を伝え、励まし合っていました。
 

山本氏よりの通信にて益々ご熱心に御修禅遊ばさるる由承知仕り、欣羨《きんせん》此上もなく、徹悟の期は早からんより寧ろ晩きこそ頼もしけれと愚行す……

これはアメリカの大拙居士から、参禅の努力が思うように身を結ばない西田に向けて送った励ましの言葉です。禅を修めてもなかなか悟りというものがわからないというが、むしろたくさん苦労した方が、より大きな悟りを得られるのだから、くじけずに発奮して欲しいという願いを伝えています。参禅については大拙居士の方が西田よりも先輩だったため、海を隔てた親友に対してアドバイスを送っていたのです。このように、西田幾多郎が哲学者として活躍するようになるまでには、宗教上の苦心の体験があったのです。
 
彼は雪門玄松の他、天龍寺の滴水(12)や大徳寺の広州(13)といった老師方にも指導を仰ぎ、禅境を深めていきます。そうして雪門から「寸心」という居士号を与えられたのです。


 

西田哲学と禅

日本を代表する哲学者として名を遺した西田幾多郎は、晩年、自分の学問の背景に禅があるのかどうか尋ねられた際に、次のような言葉を残しています。
 

背後に禅的なるものと云われるのは全くそうであります。私は固より禅を知るものではないが元来人は禅というものを全く誤解して居るので、禅というものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもいます。私はこんなことは不可能ではあるが何とかして哲学と結合したい、これが私の三十代からの念願でございます。哲学の立場宗教の立場もこれからだんだん考えて行きたいと思います

このように、西田幾多郎の哲学の背後に禅的なものが隠されているとすれば、禅そのものを追及した大拙居士の学問と内容的に通底しているのは、おのずから明らかだと思います。
 
哲学と禅学という全く異なる学問に進んだ二人の居士でしたが、彼らの学問は、その私生活における強い友情のように、彼らが情熱を傾けた参禅によって相通じ合っていたのです。 

(後編へつづく)

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第10回「西田幾多郞(後編)」は、2024年1月20日頃に掲載予定です


〔脚注〕

  1. ドイツ観念論:後述のカント哲学の影響を受け、それを乗り越えようとしたフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらの哲学に対する総称。
     
  2. 石川県専門学校:1881年から1888年にかけて金沢に存在した学校。のちに第四高等学校に発展する進学校。もともと英学校の系譜を汲んでいるためか、授業はすべて英語で為されていたという。
     
  3. 山本良吉《やまもとりょうきち》:旧制金田。金沢出身の倫理学者(1871~1942年)。加賀の三太郎の同級生で、のちに京都の旧制第三高等学校などの教師となり修身や道徳を教え、さらには北条時敬が院長の時代、鈴木大拙とともに学習院にも勤務していた。教育者として武蔵高等学校の草創期に尽力した。
     
  4. イマヌエル・カント(1724~1804年):ドイツの哲学者。東プロイセンのケーニヒスベルクに生まれ、同地で没した。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』といういわゆる「三批判書」が有名で、のちの西洋哲学全体に大きな影響を及ぼした。
     
  5. 道教:儒教、仏教とならぶ中国の三大宗教。老荘の思想の流れを汲んでいるが、加えてさまざまな民間信仰などが習合していった多神教として発展してきた。
     
  6. 国泰寺《こくたいじ》:摩頂山 国泰寺(富山県高岡市)。慈雲妙意禅師が開いた摩頂山東松寺がもとなり、1328年、後醍醐天皇より「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となった。現在、臨済宗国泰寺派大本山。
    臨済宗國泰寺派 大本山國泰寺(公式)
     
  7. 書生:他人の家の世話になり、雑用などの下積みをしながら勉学をする学生。明治、大正期には、郷里を離れた学生が単独で生活を営める環境が整備されていなかったため、書生が一般化していた。
     
  8. 帝国大学文科大学:現在の東京大学文学部。明治19年に発布された帝国大学令によって、東京大学は帝国大学へ改編され、そこに法・医・工・文・理の五分科大学が設立された。当時帝国大学は東京のみだったため、単に帝国大学と称されたが、のち時代を追って改編が重ねられ東京帝国大学、東京大学へと発展していき、現在に至る。
     
  9. 東京専門学校:明治15年(1882年)、大隈重信により東京府に設立された私立学校。早稲田大学の前身。
     
  10. 雪門玄松《せつもん げんしょう》:臨済宗の僧(1850~1915年)。和歌山出身。相国寺の荻野独園老師の下で修行し、のち富山国泰寺に住した。北陸各地で洗心会と呼ばれる禅会を行ない、出家在家問わず多くの修行者を指導した。戒律を守ること堅固であったため、山岡鉄舟より「禅門の律僧」と称された。
     
  11. 洗心庵:雪門玄松が金沢市卯辰山に結んだ庵。西田幾多郎は、ここに多年通い参禅に務めた。
     
  12. 由利滴水《ゆりてきすい》:臨済宗の僧(1822~99年)丹波国何鹿郡(現・京都府綾部市)に生まれる。今北洪川と同じく、岡山曹源寺の儀山善来の下で修行し、明治になると天龍寺派管長となる。明治5年には明治政府によって臨済・曹洞・黄檗の三派が合同で禅宗として扱われ、その三派の管長にも任命された。明治32年に遷化する。
     
  13. 菅広州《すがこうしゅう》:臨済宗の僧(1840~1907年)。大徳寺芳春院に住し、のちに大徳寺派管長を勤める。
     

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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