正伝庵前階段の鴨

鈴木大拙が出会った人々(8)佐々木月樵

蓮沼 直應
2023/9/20

鈴木大拙の大谷大学移籍

鈴木大拙は禅の研究者として広く知られています。しかし、大拙居士がアカデミックな研究職の地位を得たのは、50歳を過ぎてからでした。40代は学習院の教師として学生たちの英語指導に当たっており、研究には専念しにくい環境でした。
 
そんな中、大拙居士は京都の大谷大学へと籍を移します。大拙居士は教授として、ビアトリス夫人は講師として共に大谷大学に招聘されたのでした。大谷大学はもともと浄土真宗東本願寺(1)の僧侶養成のための大学寮が前身となっている学校です。この大学に禅の研究者である大拙居士が招かれたというのは、奇妙にも見えます。

 

新時代における宗門大学

この人事の実現のために尽力したのが、浄土真宗の仏教学者である佐々木月樵でした。佐々木月樵は、1875年に愛知県の浄土真宗の寺に生まれ、少年時代は東本願寺派の学校へ通い、のちに仏教の研究者となります。
 
当時、日本は明治となったばかりで近代的な学校制度を整えている真っただ中でした。1877年に東京大学(2)が設立されると、私立大学も続々と設立されていきます。明治法律学校(3)は1881年に、東京専門学校(4)は1882年に、英吉利法律学校(5)は1885年にそれぞれ創立されました。
 
官立大学、私立大学が設立されているこの時代、仏教の伝統教団が運営する学校も、同じく大学という近代的な学校として生まれ変わっていく途上にありました。浄土真宗東本願寺は、江戸時代には高倉学寮と呼ばれる学校があり、常に1500人が在籍して学んでいるという状況でした。明治になると、それが1882年に真宗大学寮、さらに1896年には真宗大学と改編されていきました。
 
佐々木月樵が真宗大学に入学したのは、まさにこの1896年のことでした。佐々木によると、この真宗大学はいまだ前近代的な体制で運営されており、学問の在り方も閉鎖的であったと言われています。仏教の学問については、昔の人の解釈を丸暗記するばかりで、現実に応用させるという発想は希薄だったといいます。

 

清沢満之による薫陶

佐々木月樵がそんな真宗大学を卒業したのは1900年のことでした。そしてこの頃が彼にとって人生を揺るがす契機となったのが、清沢満之(6)との出会いでした。清沢満之は佐々木よりも一回り年長の、浄土真宗の僧侶です。清沢は東本願寺という宗門の旧態依然とした在り方に対して強い危機感を抱いており、宗門を改革すべく、独自に雑誌を編集して、改革案の提言をしていました。そのことにより彼は宗門当局と対立し、一時は宗門から除名処分を受けるまでに至りました。
 
清沢はその後1899年より東京の本郷にて「浩々洞」(7)と呼ばれる私塾を開き、彼を慕う弟子たちとともに求道のための共同生活を送っていました。佐々木月樵は大学を卒業すると同時に清沢満之の弟子としてこの浩々洞に参加し、彼から大きな影響を受けたのです。
 
弟子たちは、日々清沢と談話や議論を交わし、さらには各々の見解を発表する雑誌として『精神界』(8)を自ら編集発行し、さらには講演会を主催するなど、共同生活の中で互いに研鑽を積むことができたのです。清沢は単に仏教を学問として学ぶだけでなく、実際の生活の中で教えを実践する「修養」(9)ということも必要であると考え、その考えを弟子たちとともに実践したのでした。佐々木はこうした清沢の薫陶を最も強く受けた弟子の一人だったのです。


 

佐々木月樵の理念

1918年、大学令(10)が公布されると、真宗大学でも、僧侶ではない一般学生のための学問が求められるようになり、新しく大谷大学(11)として改編されました。佐々木月樵はその第三代学長となります。彼には学問の在り方に対して強い思いがありました。彼が大学生だったときには、伝統解釈をただ暗記するという旧態依然とした学問の在り方に対して疑問をもっていました。
 
しかし、明治になり徐々に西洋的な学問研究の方法が採用されるようになると、宗門の教えに関する経典や論書、もしくはそこで説かれる内容を、歴史実証主義的な観点から研究するようにもなっていきました。近代仏教学はこのように、古い文献について科学的かつ合理的に扱うことで、古くからの伝承の誤りを修正するように発展してきました。
 
しかし、佐々木月樵はこうした実証主義に偏った学問もまた問題視していました。実証主義というのは例えば、教えの内容をまるで顕微鏡の上で観察するような態度で分析することです。ただ観察分析するばかりで、それを自ら実行しないのだとしたら、仏教の教えの本質はわからないと考えたのです。彼は「信念なき学問は権威なし」という言葉を残したといいます。こうした点に、佐々木が清沢の教えを受け継いでいることがわかります。
 
彼は「大谷大学樹立の精神」という文章の中で、仏教学という学問について、三つの目標を掲げました。一つ目は、仏教を学界に解放すること。これは、長く宗門の中でのみ継承されてきた仏教の教えを、アカデミックな研究の場で扱うようにすることです。二つ目は、仏教を教育によって国民に普及させることです。これも同じく、仏教の教えを宗門の中にとどめず、広く一般の人まで普及させようということです。そして三つ目が、宗教的人格の陶冶です。単に仏教を勉強して頭で覚えるだけでなく、自らの人生で実践して人格を磨くことも必要だということです。


 

鈴木大拙と大谷大学

そして、この佐々木月樵の理想を実現することのできる人物が鈴木大拙だったのです。佐々木月樵と鈴木大拙は、1911年の親鸞聖人650年忌の際に、親鸞聖人の伝記を共同で英訳しており、十年来の知り合いでした。佐々木は自身の学問理念を実現するために、あえて禅の研究者である鈴木大拙居士をビアトリス夫人ともども大谷大学に招聘したのです。
 
鈴木夫妻は結婚に際してある目標を掲げていました。それは「自分等の生活の目標も、結婚の当初から、東洋思想又は東洋感情とでも云ふべきものを、欧米各国民の間に宣布するといふことに定められた」と語られています。このような、仏教を広く世に知らせるという目的はまさしく佐々木の目標にも合致しているどころか、それを海外にまで及ぼそうとしたところは佐々木の理念をも上回っています。また大拙居士の思想は、宗教を単なる学問ではなく、実践と捉えている点も、佐々木の考えに通じています。
 
そうして大拙居士が大谷大学に移って最初に取り掛かった仕事が、Eastern Buddhist Society (東方仏教徒協会)の設立です。鈴木大拙と佐々木月樵に加え浄土真宗の教学者数名によって設立されたこの会は、英文雑誌Eastern Buddhistを発行するもので、大拙居士は主筆としてこの雑誌に英語論文を寄稿し続けました。そして、英文雑誌の発行にはネイティブ・チェックのできる人材も不可欠で、その任に堪える人物がビアトリス夫人だったのです。
 
こうした研究環境と発表媒体が準備されたことによって、大拙居士は英語論文を多数執筆し、それらがやがて英文著作としてまとめられていくことになるのです。佐々木月樵という人物は、大拙夫妻にとっては自分たちの目標を叶えるための場を提供してくれた恩人だったのです。


 

佐々木月樵の早世

しかし、仏教学の発展に尽力してきた佐々木も、1926年に亡くなります。仏教学の発展にさらなる貢献を期待された中での早世でした。鈴木夫妻は共に彼の死を強く悼みました。
 

永遠性を有《も》つと見るべきその人の思想計画は、何故五十で死ぬべき肉体の中に盛られたのであらうか、又は盛られるのであらうか。
 

(鈴木大拙「逝きし佐々木学長」)

鈴木大拙の著作が最も多く出版されたのは、大谷大学にいた時代でした。その大谷大学に彼を招き、活躍の場を提供するべく尽力したのが、浄土真宗の佐々木月樵だったのです。彼らは共に、禅宗や真宗という宗門の枠を超えて、広く仏教を伝えたいという大きな理想に燃えた人物だったのです。

禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第9回「西田幾多郞(前編)」は、2023年11月20日頃に掲載予定です


〔脚注〕

  1. 東本願寺・・・京都市下京区にある浄土真宗・真宗大谷派の本山。徳川家康が教如上人に烏丸六条の地を寄進し、ここに東本願寺が建立された。
    → 真宗大谷派(東本願寺)
     
  2. 東京大学・・・東京都文京区にある国立大学。昌平坂学問所などを前身として明治10年に設立された。
    → 東京大学
     
  3. 明治法律学校・・・1881年に数寄屋橋(現在の千代田区有楽町)に創立された私立学校。現明治大学の前身。司法省法学校の卒業生である岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操の3人によって創立された。
    → 明治大学の成り立ちと創立者たち I 明治大学
     
  4. 東京専門学校・・・1882年に大隈重信により東京府南豊島郡戸塚村(現在の新宿区高田馬場周辺)に設立された私立学校。早稲田大学の前身。
    → 早稲田の歴史 – 早稲田大学
     
  5. 英吉利法律学校・・・1885年に18人の若手法律家によって東京府神田区神田錦町(現在の千代田区神田錦町)に創立された。当時主流だったフランス法に対して、イギリス法を学ぶための学校として開かれた。
    → 中央大学のあゆみ l 中央大学
     
  6. 清沢満之(1863~1903)・・・明治期に活躍した浄土真宗大谷派の僧侶。東京大学文科大学哲学科を卒業して、先輩である井上円了らと「哲学会」を組織し、また『宗教哲学骸骨』を執筆するなど、宗教哲学者としても著名。また宗門に対する改革者として活動し、浩々洞による活動などを通じて多くの門弟に影響を与えた。
     
  7. 浩々洞・・・清沢満之が東京で開いた私塾。1900年、浄土真宗の近角常観が欧米視察に出向いている間、本郷にある近角の留守宅を清沢満之が預かり、そこに若い真宗僧侶・学者が集まり求道的な共同生活を送った。曽我量深、金子大栄といった多くの著名な真宗学者が居並ぶ中、暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎の三人は特に「浩々洞三羽烏」と称されていた。
     
  8. 『精神界』・・・浩々洞の同人たちが自分たちの意見を発表するために編集・発行した雑誌。1902年より発行された。
     
  9. 修養・・・明治30年頃より、日本国内で用いられるようになった言葉。人格を陶冶すること、宗教的な修行をすること、立身出世のための努力など、極めて多義的な概念。日清・日露の両戦争を通じて、日本人に武士道が改めて強く意識されるようになり、そうした理想に向けて自己の体や心を鍛錬するという「修養」がブームとなった。そうした修養ブームの中で、参禅を志す者が増え、「禅学」や「禅的修養」といった言葉も多く用いられた。
     
  10. 大学令・・・1918年に公布された勅令。それまで帝国大学(現東京大学)のみに許されていた「大学」という名称が、他の官立大学、私立大学にも使用できるようになった。ただしその第一条には、国家に必要な学問を教授すること、そしてそれを奥深く研究する事が大学の目的であると明言されており、それまで宗門の僧侶育成を目的としてきた宗門の学校は、大学令によって一般大学化する際には運営上大きな転換を必要とした。
    → 大学令(大正七年十二月六日勅令第三百八十八号):文部科学省
     
  11. 大谷大学・・・京都市北区にある私立大学。1922年に大学令によって認可された。東本願寺の学寮をその縁減とする。
    → 大学の歴史 l 大谷大学
     

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
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