円覚寺居士林の門

鈴木大拙が出会った人々( 1 )北条時敬

蓮沼 直應
2022/7/21

はじめに

1870年(明治3年)、鈴木貞太郎という名の男の子が北陸金沢の地に生まれました。のちに禅学者・鈴木大拙《すずき だいせつ》として知られることになる人物です。

仏教研究に生涯を捧げた彼は、1966年(昭和41年)に亡くなるまでの96年の生涯を通じて、100冊を優に超える著作を残しました。また戦後間もない頃に海外へ赴いて英語での講演を繰り返し行うなど、国際的日本人の先駆けでもありました。

そうした彼の活動を通じて、日本の禅は海外、特に欧米へと広く知られるようになり、20世紀後半にはアメリカにおいてZENと呼ばれる仏教の新しい思潮が生まれるに至りました。鈴木大拙は間違いなく、20世紀仏教伝道の最大の立役者です。

しかし、そうした20世紀の一大ムーブメントとも称すべき現象を、すべて鈴木大拙という一個人の功績に帰するということは極端に過ぎます。彼に先立つ人物、彼に続いた人物、彼を導いた人物、彼を支えた人物、あらゆる因縁が結実して、彼を中心とした大事業が果たされたということもまた、揺るぎない真実でしょう。

そこで本連載では、「禅からZENへ」と題して、鈴木大拙と、彼を取り巻く人物との関わりを眺めつつ、禅をめぐる大拙居士(1)の人生を追っていきたいと思います。
 

教育者・北条時敬

第1回となる今回は、北条時敬《ほうじょう ときゆき》という人物を取り上げたいと思います。

北条時敬は金沢出身の教育者です。数学者として非常に優れた学識をもっていながらも、実際には山口高等学校、第四高等学校、広島高等師範学校、東北帝国大学、学習院といった学校で校長・総長・院長を歴任した人物です。彼は学校教育に携わりながら、みずから禅に参じた居士でもありました。

この人物はこれまで西田幾多郎(2)の恩師として語られることが多く、鈴木大拙との関わりは、それほど密接なものとしては語られません。しかし、のちの鈴木大拙を生み出す苗床を用意した人物は間違いなくこの北条時敬という人物です。

北条時敬は金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を修めた秀才でした。県からも将来を嘱望されて、給付生として、東京への留学を命じられます。北条は東京大学理学部数学科に入学し、勉学に心身を捧げました。狭き門を潜り抜け無事に大学を卒業した彼は、そのまま大学院にて数学の研究を続けようとしましたが、県の給付生であった彼は一度郷里へ戻り教員とならねばなりませんでした。

そうして北条は1885年(明治18年)に石川県専門学校の教諭となったのです。そしてその当時、その学び舎に名を連ねていたのが、西田幾多郎や鈴木貞太郎といった、のちに日本の思想界を牽引することになる少年たちだったのです。
 

大拙最初の参禅

北条時敬がなぜ禅を志したのか、はっきりしたこと記録には残されていません。おそらく、彼の生来の脱俗的な気質が、禅の空気と馴染んだものと思われます。彼は1886年(明治19年)に富山国泰寺(3)雪門玄松老師(4)の下で参禅を始めます。北条は自分自身だけでなく自分の教え子たちも禅の教えに触れられるように、白隠禅師(5)『遠羅天釜』(6)を活字にして学生たちに配布していました。

しかしこの頃、鈴木貞太郎は家計が困窮していたため、学校に通い続けることができなくなり、石川県専門学校が第四高等中学校へと改編される1888年(明治21年)に同校を中退してしまいます。そのため、北条時敬と鈴木貞太郎が接することのできたのは短い期間でした。

しかし、その間にも鈴木貞太郎は北条から鋭い示唆を得ていたようです。当時、鈴木貞太郎は北条の書生であった西田幾多郎と一緒に、「禅学とはどのようなものか」と北条に尋ねたことがあったようです。これに対して、北条は「脇腹に刀を尽き立てる覚悟があるならやってみろ」と答えたといいます。禅に対する彼の峻烈な決心を窺い知ることのできる言葉です。

結局、鈴木貞太郎は学校を去ります。しかし、彼は北条の作った『遠羅天釜』を手に、禅を学ぶため北条と同じように国泰寺の雪門玄松老師を訪ねて行きました。単身片道数十キロの道を行き、苦労しつつも国泰寺へ辿りつくことはできました。

しかし、この時の鈴木貞太郎は誰の紹介状も持たず参禅の予備知識もなかったために、雪門老師と会うことはできましたが、その指導の真意をくみ取ることができず、一週間と経たないうちに寺を去ってしまいました。満足のいく結果ではなかったものの、これが大拙居士の最初の参禅でした。
 

久徴館から円覚寺へ

こののち1891年に鈴木貞太郎は上京します。彼は本郷駒込にあった北陸出身学生のための寄宿舎・久徴館《きゅうちょうかん》に下宿して新たな生活を始めました。

当初、早稲田大学の前身である東京専門学校に通い始めたものの、間もなく通学をやめ、鎌倉の円覚寺(7)へ行くこととなります。このとき鈴木貞太郎は今北洪川老師(8)と初めて相見し、円覚寺に一ヶ月余り留まって本格的な参禅修行を始めます。東京専門学校もすぐに退校してしまいます。

このとき、上京してきた彼を鎌倉の洪川老師の元へ行くよう勧めた人物が、同じ金沢出身の早川千吉郎(9)でした。早川もまた久徴館に下宿していた人物で、彼は東京帝国大学を卒業し、のちに三井銀行の重役になったエリートでした。

しかし、早川はなぜ円覚寺の洪川老師を紹介したのでしょうか。

実は鈴木貞太郎が第四高等学校を中退した2か月後、同校で教師をしていた北条時敬も、依願退職という形で学校を去っていました。北条時敬は鈴木貞太郎に先立ち、上京して東京大学大学院で数学を再び学びながら、第一高等中学校嘱託として働きはじめます。
 

居士禅の先駆者・北条時敬

この時期から北条は、鎌倉の洪川老師の下で参禅を始めます。1889年(明治22年)には、市ヶ谷の月桂寺に洪川老師を招いて摂心を催します。励精会と名付けられたこの会に参加していたのは、平沼騏一郎(10)早川千吉郎沢柳政太郎(11)といった錚々たる面々でした。

鈴木貞太郎が上京するのは、この2年後のことです。早川が、久徴館を訪れた若き鈴木貞太郎に、円覚寺の洪川老師を紹介した背景に、北条時敬を中心とする励精会の活動があったことは間違いないでしょう。

そもそもこの久徴館は、東京へ留学してきた若き北条時敬が他の有志学生とともに1882年(明治15年)に設立したものでした。
 

大拙に禅を知らせた男

このように考えると、鈴木貞太郎に数年先立って、雪門や洪川に参じ、その道を拓いたということ、また後進のための教育的環境(学問においても宗教においても)を整えたということ。このように直接的ではないものの、居士・鈴木大拙が生まれるに至る隠れた因縁を用意したという点で、北条時敬は大拙の先駆者であり、優れた教育者であったのです。

円覚寺における明治の居士禅の系譜、金沢という同郷者の相互扶助のネットワーク、これら二重の縁が結果として大拙に禅を知らせることとなったのです。

その後、この四半世紀のち、互いに別々の人生を歩んでいた二人は、東京の学習院において再会します。教育者となった大拙のもとに、新たな院長として北条が赴任してきます。まさしく奇縁と言うほかありません。この話については、いずれ回を改めてご紹介できればと思っています。

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第2回「今北洪川 前編」は、2022年9月22日掲載予定です。


  1. 居士《こじ》:出家した僧侶に対して、在家のまま仏道修行をする者のこと。
     
  2. 西田幾多郞《にしだ きたろう》:1870~1945年。金沢出身の哲学者。京都帝国大学において、周囲や門下の哲学者たちとともに「京都学派」と呼ばれる学派を形成した。鈴木大拙の同級生。
    →京都大学大学院文学研究科・文学部>日本哲学史専修ホームページ>思想家紹介>西田幾多郞
     
  1. 国泰寺《こくたいじ》:摩頂山 国泰寺(富山県高岡市)。慈雲妙意禅師が開いた摩頂山東松寺がもとなり、1328年、後醍醐天皇より「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され、勅願寺となった。現在、臨済宗国泰寺派大本山。
    →臨済宗 国泰寺派
     
  2. 雪門玄松《せつもん げんしょう》:臨済宗の僧(1850~1915年)。和歌山出身。相国寺の荻野独園老師の下で修行し、のち富山国泰寺に住した。北陸各地で洗心会と呼ばれる禅会を行ない、出家在家問わず多くの修行者を指導した。戒律を守ること堅固であったため、山岡鉄舟より「禅門の律僧」と称された。
     
  3. 白隠慧鶴《はくいん えかく》:臨済宗の僧(1686~1769年)。現在の沼津市原に生まれる。臨済宗中興の祖と呼ばれ、現代に伝わる公案修行の体系の基礎を築いた。
     
  4. 遠羅天釜《おらてがま》:白隠による仮名法語。1749年初版。参禅修行をする上での注意などが語られている。
     
  5. 円覚寺《えんがくじ》:瑞鹿山 円覚寺(神奈川県鎌倉市)。元寇の戦いで没した兵士を敵味方の区別なく平等に供養するために、執権北条時宗が無学祖元禅師を宋から招いて創建した寺。現在、臨済宗円覚寺派大本山。
    →臨済宗大本山 円覚寺
     
  6. 今北洪川《いまきた こうせん》:臨済宗の僧(1816~92年)。若くして儒学者となり、大坂中之島に私塾を開くものの、禅僧として出家する。岩国の永興寺に住したのち、臨済宗十山総黌の長となり、そののち初代円覚寺派管長となる。塔頭正伝庵を居士のための道場として開放し、居士禅の隆興に尽くした。
     
  7. 早川千吉郎《はやかわ せんきちろう》:金沢出身の大蔵官僚・実業家(1863~1922年)。東京帝国大学法科大学、同大学院を卒業したのち、大蔵省に入る。大臣秘書官や日本銀行管理官などを歴任。退官後、三井銀行専務理事や常務取締役となり、同行の発展に貢献した。
     
  8. 平沼騏一郎《ひらぬま きいちろう》:津山出身の司法官、政治家(1867~1952年)。東京帝国大学法科大学を卒業したのち、各地裁判所の判事、東京控訴院検事、大審院長を歴任。1923年司法大臣、日本大学総長となり、翌年貴族院議員に勅選される。1939年には内閣総理大臣となる。戦後東京裁判においてA級戦犯とされた。
     
  9. 沢柳政太郎《さわやなぎ まさたろう》:松本出身の文部官僚・教育学者(1865~1927年)。東京大学卒業と同時に文部省に入り、第二次大戦期まで存続する初等・中等教育制度の基礎を築いた。その後、東北帝国大学総長を経て、帝国教育会会長となり、生涯、日本の教育に携わった。
     

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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