円覚寺方丈

鈴木大拙が出会った人々(12)古田紹欽

蓮沼 直應
2024/5/20

大拙居士を支えた学者

松ヶ岡文庫(1)の設立は鈴木大拙居士にとって禅をはじめとする日本の仏教や東洋文化を海外に発信するための大きな後押しとなりました。その設立に際して同郷の友人である安宅弥吉(2)からの経済的支援があったことは前回紹介しました。今回ご紹介する古田紹欽先生はその文庫の設立から維持にかけて多大な貢献をした人物です。

古田先生は仏教学者として多くの大学で講師を勤めたのち、北海道大学教授、日本大学教授を歴任。さらに多くの仏教系、宗教系学会の理事を勤めるなど、その業績をすべて示すことは紙幅の都合上出来ませんが、戦後の仏教学、特に禅学の分野において多大な学術的貢献を残されたことは間違いありません。

そのような一仏教学者として確固たる業績を築いた古田先生は、青年時代以来、鈴木大拙居士に師事し、松ヶ岡文庫の設立にも深く関わった人物でした。
 

赤貧の小僧生活

古田紹欽先生は明治44年に岐阜県山県郡下伊自良村(現・岐阜県山県市)に生まれます。8歳の頃に父親が亡くなり、郷里の慈恩寺(3)という妙心寺派のお寺に預けられ小僧生活を送るようになります。そのお寺で出家得度もして、修行僧と同様の生活を送っていたとのことですが、当時は師を含めて10人程が暮らしていたため、寺の生活は困窮を極め、赤貧の苦労をされたことを晩年になって述懐されています。

毎朝の朝課ののちには、『大学』や『論語』といった外典(仏教外の典籍)を習っていて、小学校での成績はよかったため、中学校への進学を希望しました。寺の貧窮の中、学資の工面には大変な苦労があったものの、中学校、高校、さらに仏教学の総本山たる東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科に進みます。仏教学の大家である宇井伯寿(4)のもとで大学院まで残り学問を修めます。
 

大拙居士との縁

大学院在学中の学資をまかなうため、古田先生は大東出版社にて当時刊行中であった『国訳一切経』(5)の訓読作業を手伝っていました。ちょうどその頃、大東出版社で鈴木大拙居士のAn Introduction to Zen Buddhism の邦訳を出版社から勧められました。この書籍は当時既に邦訳されていましたが、大拙居士本人が訂正を希望していたため、二度目の翻訳の担当者として古田先生に白羽の矢が立ったのでした。

昭和13年の夏にこの計画が立てられ、翌年には翻訳作業も完了します。当時、週に2回は東京の雑司ヶ谷から大拙居士の住む円覚寺正伝庵(6)に通っていた古田先生は、この頃から大拙居士の身辺の手伝いをするようになります。東京の古本屋への買い出しや、姥ケ谷に住んでいた西田幾多郎(7)へ手紙を届けるといった、助手のようなお仕事が始まったのです。
 

松ヶ岡文庫の建設

松ヶ岡文庫の建設計画が具体的に動き出したのは、まさしくこの頃でした。大拙居士の師である釈宗演老師(8)は、仏教書や禅籍を収めるための文庫建設を遺言に残していたのでした。

当初の計画では、円覚寺の中で文庫を建設できる余地があったのは、現在の円覚寺居士林の裏手の岡の上、現在の塔頭・龍隠庵(9)の敷地のみでした。そこには既に倉庫が一棟あったため、それをもって文庫とする案が出ましたが、諸般の事情により頓挫します。結局、釈宗演老師の墓所がある東慶寺(10)の、まさしく宗演老師の墓所の裏手の岡の上が選ばれたのでした。昭和16年に、宗演老師の住した東慶寺に、井上禅定和尚(11)が入寺したことで計画が進み始めたのです。

ところが、時代は太平洋戦争下の苛烈な時代でした。建築を担う大工職が不足していただけでなく、建築物資も不足していました。建築の進捗具合はかなり緩やかなものだったといいます。さらには計画の強力な推進者であった禅定和尚が昭和18年に招集されてしまったため、現場を監督する人間がいなくなってしまいました。
 

円覚寺山内での生活

古田先生も一度は招集を受けるものの、肺浸潤のため帰されることとなりました。そんな折、大拙居士から円覚寺への疎開が勧められました。そうして、古田先生は昭和18年の春、円覚寺へ移り住んできました。住居となったのは、先ほど話題となった居士林裏手の敷地にあった楽々庵という住居でした。これは件の倉を管理する人間のための住居で、もとは同じ円覚寺山内の如意庵(12)にあったものが移築されたものでした。

楽々庵には井戸がなかったため、古田先生は雨水をためたり、近くの塔頭から水をもらったりとかなり不便な生活をしていたと回顧しています。円覚寺に移ってそうした生活の中、毎日、午後には正伝庵の大拙居士のもとを訪れ、それまで以上にその仕事を支えるようになりました。それと同時に、招集されてしまった禅定和尚に代わって松ヶ岡文庫の建築にも立ち会うようにもなりました。

特に古田先生が活躍したのは、文庫を財団法人にするための法的手続きにおいてでした。当時、財団法人登録のためには財産目録や設立趣意書などの準備が必要であり、膨大な蔵書の目録を手書きで複製するなど、かなりの尽力を必要としました。古田生成は大学院卒業後に大倉精神文化研究所(13)の嘱託研究員を勤めていたので、その経験が文庫の設立に寄与したといいます。その結果、昭和20年の12月には財団法人の認可を得て、松ヶ岡文庫が正式に設立されます。


 

主人不在の拠点を守る

戦後になると大拙居士は再びアメリカに渡ります。各地の大学で仏教や禅の講義を重ねていきます。大拙居士のこの戦後の活動を通じて、まさしく禅がZENとして広まっていくことになりました。まさしく「禅の国際的宣揚」を目指した大拙居士の面目躍如たる活躍です。

大拙が日本を離れている間も、日本にあってその活動を支えたのが古田先生でした。

大拙居士不在の正伝庵に移り住み、大拙居士の滞在先へ書籍を送り、必要な情報を取り次ぐなど師の助手役に徹底していました。加えて大拙居士が渡米している間、財界や篤志家から寄付によって、松ヶ岡文庫は数度の増改築を繰り返し、現在の姿へと整備されていきました。その全てを現場で取り仕切ったのは古田先生でありました。

加えて、『禅の諸問題』(1941年)、『よみがへる東洋』(1954年)、『日本仏教』(1961年)、『大拙つれづれ草』(1966年)など、古田先生によって編集された大拙居士の著作が多く出版されています。これは大拙居士が未整理のままにしていた講演原稿などを編集したもので、学者として大拙居士の著述活動を直接的に援助していたことも忘れてはなりません。大拙居士没後の『鈴木大拙全集』(岩波書店)の編集にも携わるなど、まさしく古田先生は師である大拙居士を最も近くで助けた弟子であったのです。
 

弟子一人ももたず候

実際、古田先生は大拙居士の没後に松ヶ岡文庫の文庫長に就任します。まさしく大拙居士の後継者となったのです。しかし、大拙居士本人はそうした師弟関係について自任していたわけではありません。

当時、大拙居士の下には彼の人徳・学徳を慕って師事した者は数多くいましたが、大拙居士本人はその誰に対しても決して自分の弟子とは言いませんでした。浄土真宗の親鸞聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」という言葉を残しています。大拙居士もその言葉をわが身に当てはめたのです。大拙居士は当時、国内の学界において多大な影響力を有していましたが、それに拠って学閥を作るような志向は皆無でした。

大拙居士の禅思想はどこまでも大拙居士自身の禅体験と学識によって構築された独立峰であり、そしてそのような無私の姿勢に魅了されたからこそ、多くの禅者・学者もまた無私の心で彼を支えていくこととなったのです。
 

謝辞

今回をもって「禅からZENへ 鈴木大拙の出会った人々」の連載は終了となります。

鈴木大拙の周辺にはまだまだ語るべき人物が無数にいます。その人々を取り上げていくことで、「禅からZENへ」の歴史的ダイナミズムを一層浮き彫りにすることができることは間違いありません。しかし12回の連載を通じて、大拙居士がどのように禅と出会い、どのように禅を修め、そしてそれを踏まえてどのような学問的人生を送ったのか、そのおおよその骨子を示すことができたと思います。鈴木大拙を中心とする近代の禅思想史に関心を抱いていただけることを願って、本連載はここで一度擱筆としたいと思います。

連載中、読者の方には温かい応援の言葉を頂戴することもありました。この場を借りて御礼申し上げます。


〔脚注〕

  1. 松ヶ岡文庫:鈴木大拙と彼の発願に賛同する有志によって、昭和20年北鎌倉松ヶ岡に設立され、翌21年2月に認可を受けた財団法人。現在は公益財団法人。
    公益財団法人 松ヶ岡文庫 鈴木大拙設立|Matsugaoka Bunko
     
  2. 安宅弥吉《あたか・やきち》:本連載第11回にて詳述。
     
  3. 慈恩寺:岐阜県郡上市にある臨済宗妙心寺派の寺。慶弔11年、八幡城主遠藤但馬守慶隆を開基、半山紹碩を開山として創建された。
    慈恩禅寺 公式サイト
     
  4. 宇井伯寿《うい・はくじゅ、1882~1963年》:愛知県生まれの仏教学者。12歳で曹洞宗にて出家し、京北中学校を経て東京帝国大学印度哲学科に入学。高楠順次郎に師事する。1930年に東京帝国大学教授となり、1941年には駒澤大学学長となる。インド哲学を始め、禅宗思想の分野で大きな業績をもった。
     
  5. 『国訳一切経』:大東出版社より刊行された日本語訳の一切経。昭和5年から11年にかけて刊行された印度撰述部全155巻と、昭和11年から市63年にかけて刊行された和漢撰述部全100巻からなる。
    大東出版社 国訳一切経
     
  6. 正伝庵:円覚寺第二十四世、明岩正因の塔所。今北洪川老師により居士寮として開放されたのち、鈴木大拙が借り受ける。戦後鈴木大拙が渡米してからは古田紹欽が留守居として滞在した。現在は円覚寺の小方丈。
     
  7. 西田幾多郎《にしだ・きたろう》:本連載第9回第10回にて詳述。
     
  8. 釈宗演《しゃく・そうえん》:本連載第4回第5回にて詳述。
     
  9. 龍隠庵:円覚寺第百二世である大雅省音の塔所。
     
  10. 東慶寺:鎌倉市にある円覚寺派寺院。1285年、北条時宗の室、覚山志道尼が開山、開基は北条貞時。鎌倉尼五山の第二位に列し、明治までの600年間、縁切寺として女性の離縁を請け負った。
    北鎌倉 松岡山東慶寺
     
  11. 井上禅定《いのうえ・ぜんじょう、1911~2006年》:神奈川県高座郡渋谷村(現・藤沢市)生まれの禅僧。10歳で東慶寺の佐藤禅忠の弟子となる。東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業した後、天龍寺僧堂に掛搭し、関精拙老師の指導を受ける。昭和16年に東慶寺住職となると、松ヶ岡文庫の設立につとめた。戦後は禅の弘法のみならず鎌倉の自然保全にも尽力した。
     
  12. 如意庵:円覚寺第三十六世である無礙妙謙の塔所。上杉憲顕を開基として応安3年に創建された。
     
  13. 大倉精神文化研究所:昭和7年に横浜市港北の地に設立された公益財団法人。哲学・宗教・歴史・文学などの精神文化、横浜市港北区域を中心とする地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動に取り組む。
    財団の概要・情報公開 – 公益財団法人 大倉精神文化研究所
     

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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