漢詩徒然草(9)「漢詩」

平兮 明鏡
2022/1/1

春夏秋冬此一時 春夏秋冬 此の一時
東西南北所之隨 東西南北 之く所に随う
紡言紡句如紝綵 言を紡ぎ 句を紡ぎ 綵を紝るが如く
換思換神宜作詩 思いを換え 神を換え 宜しく詩を作すべし
欲學名文方有境 名文の方に境有るを学ばんと欲せば
已知眞髓渺無涯 已に知る 真髄の渺として涯無きを
得來遲似征千里 得来ること遅くして 千里を征くに似たり
須琢心肝臨硯池 須く心肝を琢いて 硯池に臨むべし

渺 … 遠くはっきりと見えないさま

須 … すべからく(当然~すべきだ)

心肝 … 心臓と肝臓、転じて真心

硯池 …  硯《すずり》の水を入れるくぼんだ部分


明けましておめでとうございます。

今回は、新年ということで初心に返り、ちょっと長いですが「漢詩」をテーマに、筆者の考える「詩とは何か?」ということについてお話していきたいと思います。

今回の詩題は、そのままズバリ「漢詩」です。この詩は「漢詩徒然草」のタイトル画像の右側にある漢詩なのですが、これは一見、七言絶句に見えて、実は七言律詩の前半部分になります。(もっとも律詩は絶句が二つ並んだ形になりますので、意味さえ通れば、絶句としても成り立ちます)

みなさん「詩」とは何だと思いますか?

辞書を調べると「文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの。」(『デジタル大辞泉』小学館)と出てきます。これは主に様式・形式を言っているもので、詩の本質を言い表すには、もう少し説明が必要です。

「思いを写すということ」

春夏秋冬此一時 春夏秋冬 此の一時
東西南北所之隨 東西南北 之く所に随う

まず第一に「詩とは何か?」というと、それは先ほどの辞書にもありました「自分の感動、思いを言い表したもの」です。「これを作品にしたい!」という「思い」、これこそが詩の根幹であり、詩を詩たらしめているところです。つまり、詩のもととなる「思い」がなければ、どんなに形式が整っていようとも、何を言っていようとも、それは詩ではありません。

初心者が陥りやすいミスで、「思いを述べる」のはでなく「説明をしてしまう」というのがあります。

例えば、旅行してお城を観光したとします。そのときの「感動」を詩にしようと思い立ち筆を取るのですが、そこで得た知識や調べたことをただ並べるだけになってしまい、肝心のその「感動」がまったく述べられていない、ということが多々あります。

「どこどこにあって」「誰々が築城して」「~の戦いがあった」などというのは、ただの「説明」です。そんなことは歴史書やインターネットで調べれば、誰であってもすぐにわかります。一方、そのときの「感動」は、どこをどう探しても見つけることはできません。当然のことですが、その人が体験した「感動」は、その人しか知りようがないからです。そこを「詩」にするのです。この誰も知り得ないはずの「感動」を知ることができるのが、詩という文学です。

詩は「感動」を述べたものということは、逆を言えば詩になり得ない「感動」はないということです。そこに制限はありません。春夏秋冬、時を問わず、東西南北、場所も問いません。その一時一時の「感動」を切り取ったのものが詩となります。

「言葉に換えるということ」

紡言紡句如紝綵 言を紡ぎ 句を紡ぎ 綵を紝るが如く
換思換神宜作詩 思いを換え 神を換え 宜しく詩を作すべし

たとえ「思い」があったとしても、それを「言葉」で言い表さない限りは、叙述、記録されることはなく、他人に伝わることもありません。「思い」を「言葉」に変換する工程が必要です。

これには、いろいろな方法や技術(レトリック)がありますが、定型詩であれば、それ以前に形式やルールといった決まりがあります。

漢詩で言うと絶句・律詩などの形式や平仄・押韻などのルールがそれに当たります。漢詩の決まりの中で詩を綴るので、漢詩になるわけです。漢詩の形式を守っていないのであれば、それはどんなに漢詩っぽいものであっても漢詩ではありません。これはすべての文学、芸術ジャンルに言えることです。決められた規定に則っているからこそ、その様式における品格が具わります。

そして、いざ文字を綴るという段階になると、どうやって思いを言葉に変換するか?という問題に直面します。表現すべき「思い」とは、心の中にあるものです。本来、必ずしも言葉で言い表わせないものを、言葉で言い表わそうとしているのです。

ここが困難であると同時に腕の見せどころでもあります。まさに機織り《はたおり》が経糸《たていと》と緯糸《よこいと》を合わせるかのように、巧緻に言葉と言葉を織り込み、詩という綵《あや》を完成させるのです。

「道は遥かということ」

欲學名文方有境 名文の方に境有るを学ばんと欲せば
已知眞髓渺無涯 已に知る 真髄の渺として涯無きを

昔の大詩人の名句に感動して自分も詩を作ろうしますが、しかし「全然、言いたいことが言い表せない!」ということにすぐ気付きます。当たり前のことですが、はじめから上手くできる人なんていません。それどころか、何年経ってもこの「上手くいかない!」という感情は常につきまといます。

何とか上達しようと、知識やテクニックを求めようとするでしょう。それらを学ぶことも決して疎かにしてはいけませんが、忘れてはならないのは「自分の詩とは一体どんなものなのか?」ということを探求することです。自分のスタイルを確立させる、という言葉がありますが、自分を知らずにそれを知ることはできません。これは、自分だけの詩の世界を構築する、と言ってもよいでしょう。

もちろん一筋縄にはいきません。しかし、文学に限らず目標や理想があるということは大変幸運なことです。それは自分の世界を作り出す指針になるからです。上達のコツの一つに、理想の完成像をイメージしながら作る、というのがあります。好きな詩人がいて、このような詩が作りたい!という思いがあれば、自ずとそこから自分の世界が形作られていくことでしょう。

「心を磨くということ」

得來遲似征千里 得来ること遅くして 千里を征くに似たり
須琢心肝臨硯池 須く心肝を琢いて 硯池に臨むべし

上達のスピードは、もちろん人それぞれですが、どんな人でも一朝一夕というわけにはいきません。上達すればするほど、また新たな壁に突き当ります。才能のなさを実感したり、限界を感じたりもします。

そこに近道はありません。精進あるのみです。何より大切なのは探求の意思を持ち続けることです。自分で考え、自分でやってみることです。今はインターネットで検索すれば、すぐに答えが出てきますが、詩作の世界では資料やヒントを見つけることはできたとしても(これはこれでとても重要なのですが)、答そのものが転がっていることは絶対にありません。そもそも「答えがない」ものだからです。

答えは、自分で考えて「作り出す」しかありません。自分で考えることをしないで、どこか他のところに答えを求めても、結局上達には繋がりません。借りもので解決して、その場をやり過ごしたとしても、その壁を乗り越える力は身についていないからです。

しかし、この壁に突き当って立ち止まるということは、逆にチャンスでもあります。壁はもう目の前にあり、その壁を乗り越えることができたのたなら、確実にまた一歩、前に進んで新しい世界が見えてくるのですから。

この連続が「心を磨く」ということです。自分が何ものかを知ろうとすることです。それをわずかでも知ることができたなら、この上ない喜びとなるでしょう。困難を乗り越えて、ついに作品が完成したときは本当に最高の気分です。創作は決して平坦な道ではありませんが、同時に替えがたい喜びもあります。これは、病みつきになる喜びです。

みなさんも、この年明けを機会に創作を始めてみませんか?何にでもチャレンジしてみてください。きっと新しい世界が開けますよ?


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春夏秋冬此一時 春夏秋冬 此の一時
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東西南北所之隨 東西南北 之く所に随う
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紡言紡句如紝綵 言を紡ぎ 句を紡ぎ 綵を紝るが如く
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換思換神宜作詩 思いを換え 神を換え 宜しく詩を作すべし
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欲學名文方有境 名文の方に境有るを学ばんと欲せば
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已知眞髓渺無涯 已に知る 真髄の渺として涯無きを
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得來遲似征千里 得来ること遅くして 千里を征くに似たり
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須琢心肝臨硯池 須く心肝を琢いて 硯池に臨むべし

七言律詩、仄起式「時」「隨」「詩」「涯」「池」上平声・四支の押韻です。

律詩については、漢詩講座の(28)「*上級編! 律詩」で、対句については、(27)「*上級編! 対句とは?」で述べています。律詩を作るのは決して容易ではありませんが、その整然たる格調の高さは漢詩文学の真髄です。是非、チャレンジしてみてください。

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