初めての人のための漢詩講座 18
第二章 漢詩のルール
※上級編! 禅宗における漢詩(2)
平仄式を勉強しましたので、前章でお話した禅宗の偈について、またいくつか見ていきましょう。今回は、祖師録という祖師方の言行を記した書籍からの偈を紹介していきます。
まずは、禅宗六番目の祖・慧能大鑑《えのうだいかん》禅師の言行録、六祖壇経《ろくそだんきょう》からです。しかし、六祖壇経には、禅宗初祖・達磨大師《だるまだいし》の偈の引用がありますので、まずはそちらを見てみましょう。
達磨大師が二祖・慧可大師《えかだいし》に法を伝えたときに詠んだとされる偈です。
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吾本來茲土 吾 本 茲の土に来り
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傳法救迷情 法を伝えて 迷情を救う
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一華開五葉 一華 五葉を開き
●●●○◎
結果自然成 結果 自然に成る
もともと吾がこの地(中国)に来たのは、
法を伝えて迷える人々を救うためだ。
一つの花が五弁を開き、
実は自ずから実る。
インドからはるばるやって来た達磨大師が禅を伝え、その教えが代々伝えられていくことを意味しているともいわれていますが、教えを伝えるのは人々を救うためであり、その慈悲心の花が開けば、仏の道は自ずから成就する、とも取ることができます。
五言古詩。「情」「成」下平声・八庚の押韻です。
その達磨大師から六代あとの慧能禅師ですが、まだ師匠である弘忍大満《ぐにんだいまん》禅師のもとで修行していたある日のことです。弘忍禅師が、
「自己の本性を一句を以て言い表してみよ。もし、仏法の奥義を示したものならば、伝法の袈裟を授けよう」
と、弟子たち全員に告げました。まず、一番の高弟だった神秀上座《じんしゅうじょうざ》が、次の偈を呈します。
○●○○●
身是菩提樹 身は是 菩提樹
○○○●◎
心如明鏡臺 心は明鏡台の如し
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時時勤拂拭 時時に勤めて払拭せよ
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莫使惹塵埃 塵埃を惹かしむること莫れ
菩提樹 … 釈尊はこの木のもとで坐禅をして悟りを開いた。悟りの象徴
明鏡臺 … 一点の曇りもない鏡の台
塵埃 … ちりやほこり
この偈を見た多くの弟子たちは神秀上座を褒め称えますが、これに対して慧能禅師は、
○○●○●
菩提本無樹 菩提 本 樹無し
○●●○◎
明鏡亦非臺 明鏡 亦 台に非ず
●○○●●
本來無一物 本来無一物
○●●○◎
何處惹塵埃 何れの処にか塵埃を惹かん
という偈を呈しました。弘忍禅師は慧能禅師の偈を認め、伝法の袈裟を与えたということです。
さて、この両者の偈、神秀上座は体を菩提樹、心を明鏡台に喩《たと》え、常に修行を怠らずに精進するように言っているのですが、それに対して慧能禅師は、もともと菩提樹も明鏡台もなく、つまり悟りも何もないのだから、それを汚す煩悩もない、と返しています。悟りを求めたり煩悩を消し去るのではなく、自己の本性が仏であると自覚することこそが悟りであると言っているのです。
しかし、これは少しズルい感じもします。半分も神秀上座が使った語句を使ってカウンターパンチを仕掛けたわけですから。押韻も同じく上平声・十灰韻の「臺」「埃」を用いています。これは漢詩で返歌をするときの作法の一つでもあります。
ちなみに、神秀上座の偈は完全に五言絶句の形式ですが、慧能禅師の偈は五言絶句の型からは外れていて五言古詩になります。
それでは、その悟りのハタラキを表した臨済禅師の偈を見てみましょう。臨済禅師の言行録・臨済録からです。
この偈は、臨済禅師が行脚中、鳳林禅師のもとを訪れたときのこと、数度の問答のあと、悟りの一句を呈してみよ、と言われて作った偈です。
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大道絶同 大道は同を絶し
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任向西東 西東に向うに任す
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石火莫及 石火も及ぶこと莫く
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電光罔通 電光も通ずること罔し
真実の大道に決まった方向はない。
西に行くも東に行くも自由自在なのだ。
その境地には石火も及ばず、
電光の速さも通じない。
悟りのハタラキとは、心のハタラキです。心が自由自在であるからこそ、どこへでも行くことができ、瞬時の即応ができるのです。前半は空間的に、後半は、時間的にそのハタラキをとらえています。
四言古詩。「同」「東」「通」上平声・一東の押韻です。
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