臨済義玄 – 禅の名僧(7)

山田 真隆
2021/9/8

臨済義玄(りんざいぎげん / ?-867)

滹沱河《こだが》という川の畔にある小院の址。臨済義玄(以下、臨済)が住した臨済院の址です。そこは河北省石家荘市の郊外、正定という街。かつて鎮州と呼ばれたところです。臨済は師・黄檗と江西にて別れてから、この地にやってきました。


『臨済録』には、臨済がこの北方の地を目指す契機となった仰山慧寂《きょうざんえじゃく》との予言めいた問答があります。臨済は河北省と隣接する山東省の出身です。北に向かえと言われると、自分の故郷に割と近い(とはいえ遠いですが)河北の鎮州に縁を感じたのかもしれません。ちなみに山東省は孔子の故郷でもあります。

黄檗山に身を寄せるまでは、山東省の曹州南華で生を受け、俗姓は郉《けい》氏、幼少より機智に富み、学問に励み博く知識を修めます。しかしそれが人助けの方法ではないことに気付き、ついに黄檗の門を叩いたということです。

黄檗寺でのことは黄檗希運の項目で記した通り。山東省の曹州南華は現在菏澤市という地名が付き、臨済が生まれた李集庄村には、小さいながらも臨済草寺なる誕生を記念した施設もあります。

鎮州にて小院を構えると、大尉黙君和という人から帰依を受けます。その小院は、唐朝の最晩期に戦乱が激しくなり危なくなり、鎮州城の城壁の内側に移りました。それが現在の臨済寺(院)です。臨済寺も長年澄霊塔という大きな塔があるのみでしたが、復興・整備が進み大きな伽藍を構える大寺院になっています。


その臨済院での説法が収録されているのが、すでに何回も登場している『臨済録』という語録。主に、上堂《じょうどう、法堂に上って説法すること》、示衆《じしゅ、衆僧に対する説法》、勘弁《かんべん、問答集》、行録《あんろく、伝記》の四つのパートで構成されています。さらに後世加えられた馬防という人の「序文」というのがあり、昔は臨済宗のお坊さんかどうかを見極めるために、この序文を暗唱させました。暗唱できなければ偽物だということです。

『臨済録』は画期的な語録です。まず行録という伝記にあたる部分で、臨済という人そのものを描写している所。臨済の言行はもちろんのこと、まだ悟りたてで青臭く、横着さが抜けない臨済の様子も余すところなく描いています。普通祖師を顕彰するという役目も帯びているのがこういう記録の常ですが、その限りではないのが『臨済録』といえるでしょう。

また、経典に頻出する「仏」の表記に代わって『臨済録』に使われるようになるのが「人」という語です。よく知られた禅語「無位の真人」「無事是れ貴人」等があります。

いずれも、段階的に真理に到達しようとするのではなく、未熟な自分や、「仏」ではなく苦しみ悩む「人」として、その時の自分自身がそのまま真理だととらえる頓悟禅の思想が『臨済録』にあります。黄檗の項で如何に頓悟禅が深められたかを言いましたが、『臨済録』を読んでいくと、臨済に至って頓悟禅はこのように一つの到達点を迎えたと言っていいでしょう。


『臨済録』を読んでいて興味深い所としてもう一つ挙げられるのが普化という僧の存在です。鎮州で臨済と活動を共にしますが、普化の行動の多くが奇行・愚行と呼べるもので、例えば臨済と二人で在家の宅へ食事に行った際、お膳をひっくり返したり、生野菜をかじってロバの真似をしたり、毎日街路に出ては何やら唱え物をしながら鈴を振って歩いてみたりというものです。

これも、馬祖の牛のようにノソノソ歩いたということや、黄檗の礼拝こぶがあったということと同じく、一見愚行のように見える行いの中に真理にあると見る中国的思想の現れで、頓悟禅の体現ということになります。

後の北宋代に臨済宗が一大発展し国家仏教化した時、宗祖としての権威付けから、こうした従来の頓悟禅の体現を臨済が語録の中でできなくなったため、その代役を果たしているのが普化といえるでしょう。


厳しく自分を直視することを言う臨済の教えですが、逆に自分に向き合いさせすればそれ以上の厳しさはない、むしろ未熟で苦しむ私たちを優しく応援してくれる、エールを送ってくれているのが『臨済録』ではないか、と感じます。

「仏になれ」や「悟りを目指せ」ということはなく、あくまで「人」でいいと説くのが臨済です。それも「人惑《にんなく》を受けざらんことを要す」、人に惑わされない人であればそれでいいということです。この「人」の中には他人と同時に自分も入っていることに気が付かなければいけません。

巷間いろんな解釈がされている「無位の真人」《むいのしんにん》という語も、臨済らしい言い方だと思います。「真人」、人の真実ということを見ていったら、それはその人の一部分、勉強が出来るとか、人付き合いがいいとか、忘れ物をよくするとか、そういう部分的なことではなく、その人のすべてということになるはずです。善いところも悪いところもすべてひっくるめて人の真実です。

つまり、その人のいろんな部分を「位」とすると、部分ではなく全部まとめてという意味で「無位」と言っているのではないでしょうか。人間というのは、何かを足していって完成するものではありません。ましてや引いたり掛けたり割ったりして完成するものでもありません。そもそも完成しているのですから。

ですから私たちに必要なことは、日々自分に対して四則計算をすることではなく、やはり臨済の言う通り自分そのものを見るということではないでしょうか。

そしてそれが如何に未熟で頼りないものであったとしても、最後はその自分しかいないという腹のくくり方・覚悟をすることではないでしょうか。臨済自身、黄檗のもとで自分を見るということをしなかったがために、回り道をしたことが体験としてあるだけに、私たちに切迫してくる教えです。


『臨済録』はあくまで禅者・臨済の記録。ですから伝記である行録は、黄檗に三度打たれ大悟した話から始まる、つまり禅者として生まれた瞬間から始まりますが、禅者として世を去る時と、人間として世を去る時は同じ。『臨済録』の終わりは、臨済の遷化《せんげ、禅僧の死のこと》の様子を語っています。

三聖慧然《さんしょうえねん》という弟子が傍にいて最後の問答をしますが、その中で臨済は「誰か知る、吾が正法眼藏、這の瞎驢邊《かつろへん》に向かって滅却することを」(まさか、お前のところで、我が仏法が滅びるとは、誰が知ろう)と言います。

一見弟子への厳しい戒めのようですが、あくまで今まで示してきたのは自分の仏法、自分亡き後は三聖お前も私の仏法を継承するのではなく、お前自身の仏法を見つけなさい。あとは任せたぞ!という激励のようにも読めます。

最後まで自分と向き合うことを示した『臨済録』の臨済の激励は、三聖だけにではなく、いつの時代にも向けられている臨済からのメッセージです。また『臨済録』はこの三聖慧然のまとめたものです。

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