菩提達磨 – 禅の名僧(1)
菩提達磨(ぼだいだるま/?~528〈生没不詳〉)
あの赤く丸い形をした置物の実にユーモラスな顔。
まず達磨と言えばそういうイメージでしょう。置物の達磨は、よく「優美」とか「端正」とか言われ、美の極致だと評価される仏像とは一線を画すものだ、と私は感じます。まるでどんなところにでもいそうな親しみやすさ。そういえば普段から、あまり「達磨様」とは言わずに「達磨さん」と呼んでいます。
そんな親近感がありながら、釈尊よりはるかに経歴不明なのが達磨さんです。南インドの出身で海を渡って中国に入り、嵩山《すうざん》少林寺にて壁に向かって九年坐禅したことなどは、確実なようですが、細かいところは謎が多すぎます。結局、現在では後世に中国禅宗の理想像を表現するために、複数の高僧の履歴を合わせて一人の人格にしたものだといわれています。
菩提達磨大師(以下、達磨)は、南印・香至国王の第三王子で菩提多羅という名前と伝わります。その王子時代には、こんな話があります。般若多羅尊者(のちに達磨の師)に、父王が立派な玉を献上した時、長兄、次兄がその玉を称賛する中、ひとりこう言いました。
「こんな玉は世間の宝に過ぎず、いずれは砕けて無くなってしまう。そんな玉よりは人間の心が遥かに尊い宝です」
といって周囲の人達を驚かせたといいます。いかにも人間の心に着目する禅宗の初祖にふさわしいエピソードです。
父王が亡くなった時も、長兄、次兄含めみな泣いているのに棺桶の横でじっと坐禅し、葬儀が済むと般若多羅尊者に付いて出家をされました。そこで菩提達磨と名付けられました。それから40年修行し、師の般若多羅尊者が亡くなって諸国を行脚し60年、それから中国に渡られたといいます。
当時の中国は南北に違う王朝が存在する南北朝時代。日本は飛鳥時代です。
広州に到着した達磨は南朝・梁の首都金陵(現・南京市)に行き、武帝という皇帝に会います。武帝はいくつかの質問をしますが、世俗の立場から質問する武帝に対し、心の問題として答える達磨では、問答がかみ合わず、結局達磨は北朝の北魏に行ってしまいます。
紙面の都合でここでは紹介しませんが、この時の問答は『碧巌録』第1則「武帝達磨に問う」に詳しく出ています。
梁を去って北魏に行ってからの滞在地が、達磨縁の地として最も名高い少林寺です。この地にある時に、後に大師の法を嗣ぐことになる慧可という人物と出会います。慧可との問答は『無門関』第41則「達磨安心」にあります。
中国河南省にて、その達磨の縁の地・少林寺一帯並びに空相寺を訪ねたことがあります。
少林寺には達磨洞という達磨が面壁坐禅をされたと伝えられている小さな洞窟があります。行かれた方ならおわかりかと思いますが、洞窟に行くには約千段もの石段を登らなければなりません。私は二度登りましたが、そのときの辛さは忘れようもありません。
達磨洞への途中には初祖庵というお寺があり、その脇を通って上を目指すのですが、この初祖庵に来るだけでもう息が上がります。その後、達磨洞まで登り、整備された展望台から見渡すと、眼下にはミニチュアのように小さくなった少林寺が見えます。
また一帯には二祖慧可大師の住した二祖庵があり、ロープウェイを使っていくことができます。
少林寺の境内には、慧可が腕を切断し達磨に示したという場所があり、今では「立雪亭」というお堂が建っています。現地に伝わる話では、達磨が「赤い雨が降ったら入門を許す」と告げたことから、慧可が腕を切断したとなっているそうです。何ともすさまじい話で、私は初めて聞いた話でした。
少林寺をからバスで二時間ほど行くと、達磨の墓所である空相寺に着きます。天気が良ければ諸堂の奥に熊耳山が青空を背にそびえ、雄大な姿を見せてくれます。
伝説には事欠かない達磨。
亡くなった後にも、パミール高原で片方の履物を頭上に載せてインドに帰る達磨を見かけたので、埋葬されている熊耳山に戻り棺を開けると履物が片方しかなかったということです。
後の唐の代宗皇帝に諡号され「円覚大師」と賜っています。