初めての人のための漢詩講座 4
第一章 漢詩とは
*上級編! 禅宗における漢詩(1)
「禅人」は禅宗・臨済宗のサイトですので、禅宗と漢詩の関わりについて少しだけ触れてみたいと思います。実は、禅宗と漢詩は歴史的に見ても非常に関わりが深く、現代でもお葬式や年中行事など、法要のおりに詠まれています。
もともと中国では、漢詩は書画と並んで文化人の必須の教養でした。禅宗は鎌倉時代に中国から伝来したのですが、当時からその傾向を色濃く受け継いでいます。
鎌倉末期から室町時代には、京都・鎌倉の五山を中心とした禅僧による漢詩文化が興りました(五山文学)。以来、現在に至るまで、禅宗ではことあるごとに漢詩を詠んでいます。
漢詩と偈
禅宗で詠まれる漢詩のことを偈《げ》・偈頌《げじゅ》・詩偈・法語・香語などと言います。もちろん漢詩の1ジャンルであるわけですが、一般の漢詩が自然や人生などを詠んだものが多いのに対して、禅宗の漢詩は禅の境地を詠んだものが中心になります。よって、禅や仏教の専門用語が用いられることが多く、一般的に難解です。
ここでは、大徳寺開山・大燈国師の投機の偈を紹介します。投機の偈とは悟りを開いたときに詠んだ偈のことで、大燈国師は師匠である大応国師に与えられた雲門の関という公案で大悟しました。
一回透得雲關了 一回 雲関を透得し了って
南北東西活路通 南北東西 活路通ず
夕處朝遊沒賓主 夕処朝遊 賓主を没し
脚頭脚底起淸風 脚頭脚底 清風を起こす
ひとたび雲門の関を透過し終わってみると、
東西南北、あまねく自由自在の活路がゆきわたる。
どこにいようとも、いつ何どきも、自分と相手の区別はなく、
その足どりは徹頭徹尾、清風を巻き起こすのだ。
仏のハタラキは東西南北、いつでもどこでも自由自在であるという大燈国師の境地です。大燈国師が見て感じ得たものは何なのか?「賓主を没し」「清風を起こす」そのところを汲み取ってみて下さい。
また、禅僧ではありませんが、禅の修行をした古人の漢詩で、偈に近いものもあります。次の漢詩は宋の時代の官僚であり詩人でもあった、蘇東坡が東林常総禅師に参じ、無情説法の公案で悟ったときのものです。
溪聲便是廣長舌 渓声 便ち是れ 広長舌
山色豈非淸淨身 山色 豈に清浄身に非ずや
夜來八萬四千偈 夜来 八万四千偈
他日如何擧似人 他日 如何ぞ 人に挙似せん
広長舌 … 如来の特徴である三十二相の一つ。仏の説法を表す
清浄身 … 清浄なる如来の本体。仏のみ姿を表す
絶え間なく聞こえる谷川のせせらぎも仏の説法であり、
また、山の景色もそのすべてが仏の清浄なるみ姿である。
昨晩からのこのありがたい仏の説法、八万四千の偈を、
後日、どのようにして人々に伝えることができようか。
大燈国師の偈とは対照的に、こちらは聞こえるものすべて、見えるものすべてが仏のハタラキでないものはないという境地です。起句は聴覚的に、承句は視覚的にその感動を表しています。
禅では心のあり方を大変重視しますので、自身のありのままの心を文字に換え、漢詩の形に表したものが偈なのです。よって、内容そのものには一般的な漢詩とは大きな違いがありますが、漢詩であることには違いはありませんので、基本的なルールは全く同じです。
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