六祖慧能 – 禅の名僧(2)

山田 真隆
2021/4/8

六祖慧能(ろくそえのう/638~713)

かの武者小路実篤さんの随筆『幸福な生き方』に、

 

「僕の一番尊敬する画家に梁楷という絵かきがある。その人の画いた絵に達磨さんから六代目になっているえらい坊さんが竹を切っている絵がある」

という文章があります。今回取り上げるのは、その「達磨さんから六代目になっているえらい坊さん」です。
名前は「慧能《えのう》」。それに六代目という意味で六祖と付け加え、六祖慧能と通常お呼びします。


仏教は釈尊によって開かれたことはいうまでもないことですが、その釈尊の出自はシャカ国の王子でした。また禅宗の初祖である達磨もインドの香至国の王子でありました。

そのような高貴なご身分の方々によって伝承されてきた感の強い仏教でありますが、ことにこの六祖に至っては、出自は貧農で父親は早くに亡くなり、病弱の母を養うために少年の頃から山中に入って柴を取り、それを市場で売ってわずかな収入を得て生計を立てていたという、それまでの仏法の伝承者からすると異色の経歴です。

仏法との邂逅も、その柴を売るために町に出ていたときに、客の一人が唱える『金剛経』の一節「応無所住 而生其心《おうむしょじゅう にしょうごしん》」を耳にした、というものでありました。これも高名な思想家に導かれたというものではなく、あくまで自らの心のはたらきによって気付いているという点において、いかにも禅宗の大発展をもたらした六祖らしいエピソードだと思います。


慧能青年がそのように生まれ育った場所は、広東省の省都・広州市から西へ車で三時間ほどの新興という町です。そこには生誕を記念するお堂もあります。新興を訪れると誰もが感じることだと思いますが、町自体は本当に普通の中国の田舎町です。家はまばらで田んぼや畑がひろがり、町の人も着飾った人は居らず生活の匂いを濃く感じさせます。

その普通さが慧能青年の出自の平凡さとイメージが重なって、もしかしたら今でもその辺を歩いているかのような雰囲気があります。生誕記念堂の向かいには小高い丘があり、その森に入って柴でも取っていたのかなと想像をかきたてます。

慧能青年は先ほどの『金剛経』の一節を唱えていた人に、その言葉は誰から聞いたのか尋ねます。その人は黄梅というところに東禅寺というお寺があるが、そこの弘忍《ぐにん・こうにん》禅師という人から聞いたと答えます。弘忍禅師とは、五祖弘忍といわれる禅宗の五代目を嗣いだ高僧です。慧能青年は、ありったけのお金を母に渡し、その黄梅の東禅寺に行くことにしました。

文字だと伝わりにくいですが、広東省の新興からそのはるか北にある湖北省の黄梅に行くことは、交通の発達した現代でもかなり困難です。私が初めて中国を旅行したのは1994年のことでした。そのとき実際にその道のりをほぼ辿ったことがありますが、途中寄り道はしているもののバスと鉄道を利用して10日ほどかかりました。慧能青年はその道のりを三十余日で行ったといいます(諸説あります)。


東禅寺に着いた慧能青年は弘忍禅師に参礼します。すると弘忍禅師は「お前はどこから来たのか?何を求めてきたのか?」と問います。

慧能は「私は広東新興の百姓です。ただ仏になることを求めて来ました。」と答えました。弘忍禅師は「広東新興の田舎者がどうして仏になることが出来るだろう。」というと、慧能は「人には南北の違いはありますが、仏性(仏の心)にはその違いはあるでしょうか?私は田舎者ですが和尚様とどう違うのでしょうか?」と返します。

ここで弘忍禅師はこの慧能青年がただ者ではないことを見抜きます。
すでに禅宗の枢要である仏性について的確な見解を持っていたからです。

そして更にこの問答を深めたかったのですが、周囲の弟子たちの目を憚って一旦寺の裏にある米搗き場に押しやり仕事をさせました。

従事すること八ヶ月経って、弘忍は自分の後を嗣ぐ六祖を誰にするかを決めるため、偈頌(げじゅ・禅境が説かれた漢詩)を作ってくるよう弟子たちに指示します。

当時弘忍禅師の後継者と見られていたのは神秀《じんしゅう》という人でした。しかし神秀は内心自信がなく、もし師の意に適うものが出来なかったらどうしようと悩みましたが、なんとか作って呈したのが次のものです。

「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」

身は菩提樹、心は鏡のように清浄なものだから、常に掃除して塵やほこりが着かないように勤めなさい、という意味です。これを見て弘忍禅師は、神秀がまだまだ自分の意に適っていないことを知りました。さらにもう一偈を呈するようにと指示しますが、それが遂に出来ませんでした。

慧能青年は、それを耳にし、自分ならこう作る、と呈したものが次のものです。

「菩提本と樹無し、明鏡亦た台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵挨を惹かん」

本来、仏心には菩提樹とか明鏡台などというとらわれは無い、無一物である、それなのに何処に塵挨を着けようというのか、という意味ですが、これを見た弘忍禅師は、密かに慧能を六祖にと決めました。

なぜ密かに決めなければいけないかというと、公言すれば一介の在俗の男に六祖を嗣がせることに反感を持った者が慧能を殺害するかもしれないからです。夜を待ってこっそりと慧能がいる米搗き場に行き、そこで改めて確認の問答をし、六祖として伝法の証である衣鉢(衣と食器)を渡しました。そして今のうちにこの場を去るようにといい、弘忍自ら舟をこいで見送ったといいます。

このような劇的な伝法が行われた東禅寺というお寺は、湖北省の省都・武漢からバスで四時間東にひた走った山の中にありましたが、残念ながら現在では残っていません。ただ石碑が残るのみです。ただ、ほど近いところ弘忍禅師縁のもう一つのお寺・真慧寺(しんえじ・五祖寺とも)があり、現在でも参拝観光地として賑わっています。弘忍禅師の真身像(遺体に漆布を巻き像としたもの)や弘忍禅師の墓塔が残っています。


東禅寺での劇的な嗣法の夜が明けると、禅宗の法が五祖から六祖として慧能に渡ったこと、慧能が南へ逃れたことが修行僧の間に知れわたります。

五祖の予測通り、中にはいきり立って追いかけるものもいました。その急先鋒が慧明という僧でした。この慧明、元は軍人で身体能力に長けており、真っ先に慧能を追いかけ、大庾嶺という広東省へ抜けるための峠にて慧能に追いつきます。

追いついたところで、慧能と慧明のやりとりが始まります。この様子は『無門関』第23則「不思善悪」に詳しくあります。結局、慧明は当初の目的である慧能から伝法の証である衣鉢を取り返すことをやめ、慧能の人間力にすっかり魅了され、弟子になってしまいます。

それから法難をさけるため、慧能は猟師のもとに生活して身を隠し過ごしました。
数年後のある日のこと、慧能の姿は広東省広州の市街にある法性寺(現・光孝寺)にありました。

その日は説法がある日で、それを示す幟が立っていました。その幟について二人の僧が討論していました。一方は幟が動いていると言い、もう一方は風が動いていると言い議論の収拾がつきませんでした。そこへ慧能はこういいます。

「幟が動くのでもない、風が動くのでもない、あなた方の心が動いているのです」

この様子を知った法性寺の住職は「もしかしてあなた様は五祖の法を嗣がれた六祖ではありませんか?」と問うと、六祖だということがわかり、そこで剃髪し正式に出家の儀式をして、この時初めて六祖慧能という人物が歴史の表舞台に出たことになります。

光孝寺境内には「瘞髪塔《えいはつとう》」という六祖の剃髪した髪を安置した小ぶりの塔が残っています。


それから、六祖は広州から北にいったところの韶関という街の郊外にある宝林寺(現・南華寺)に移り本格的に活躍します。南華寺の特筆すべきことは何といっても六祖の真身像(生前の容貌を残すため、遺体に漆に浸した布を巻いて乾かした像)があることです。今はお堂の奥の方に安置され容易に近くで拝観できなくなりましたが、私が最初に見た1994年には、数十センチの近さまで寄って見ることが出来ました。

同じく韶関の街中には、もう一つの六祖の活動の拠点であった大梵寺(現・大鑑寺)があります。ここで六祖は、かの有名な『六祖壇経』を講義しました。経典でもないのに「経」と付いているのはまだ禅の教えがまだ浸透しておらず、大乗経典の威光を借りたからだともいわれています。


晩年の六祖は生まれ育った新興にもどり、旧宅を寺院に改めて過ごしました。後に「国恩寺」と寺号を下賜されました。そしてここが六祖の波乱万丈の人生の終焉の地でもありました。

国恩寺には母の為に建てたと言われる報恩塔があります。
仏道を求めてのこととはいえ、置き去りにしてきた母のことを六祖は生涯思い続けていたのでしょう。

諡号は大鑑禅師とおくられました。

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