漢詩徒然草(6)「銀河」

平兮 明鏡
2021/10/1

星有瓊音天有調 星に瓊音有りて 天に調べ有り
銀河珠寶散縱橫 銀河の珠宝 散りて縦横
靑玉紅玉亦黃玉 青玉 紅玉 亦 黄玉
幾億玲瓏宇宙盈 幾億 玲瓏として 宇宙に盈つ

瓊音 … 玉の鳴る音
珠寶 … 宝石
靑玉 … サファイア
紅玉 … ルビー
黃玉 … トパーズ
玲瓏 … 玉が合わさり涼やかに鳴るさま


秋ということで、前回に引き続き星の詩です。

この詩は実は、新聞に掲載されていた小学4年生の詩に感銘を受けて、即興で漢詩にしたものです。つまり、日本語の詩を翻訳した漢詩、ということになります。

もとの詩は「銀河の音」という題だったのですが、面白いと感じたのは星々の輝きを聴覚で表現していたところです。星は音を鳴らさないので、普通は星空の光景は視覚で表現します。しかし、この小学生は、その感性の赴くままなのか、詩全編を通して銀河を「音」で表現しました。奇抜な発想です。

星有瓊音天有調 星に瓊音有りて 天に調べ有り
銀河珠寶散縱橫 銀河の珠宝 散りて縦横

これは、その「銀河の音」が聞こえてくると感じるほどの光景だった、ということです。音が聴こえるはずのないものから音が聴こえてくる。あり得ないことだからこそ、むしろ、その感動が伝わってきます。しかも、それが宝石の散らばる音というのは、星空の煌《きら》めきの形容として非常にふさわしいものではないでしょうか?

このことは「詩とは何か?」を考えるにあたって、斬新な見地を私たちにもたらしてくれます。つまり、五感という常識にとらわれない表現方法を示唆しているのです。人の感性は、実際の五感をも超える、といってもよいかもしれません。

前々回の「水族館」でも、このようなお話をしました。

詩作の教えの一つに、「事実であっても必要ないものは詠まない、事実でなくても必要なものなら詠む」というのがあります。詩は「事実」ではなく、「真実」を詠むものだからです。

真実、この小学生には「銀河の音」が聴こえていて、その感動が具体的な表現「宝石の音」として詩に現れているのです。「漱石枕流《そうせきちんりゅう》・石に漱《くちすす》ぎ流れに枕する」という故事があります。自分の失敗を認めず言い逃れをする、という意味ですが、詩情に適えば別に誤りではありません。それどころか、真実となるのです。

靑玉紅玉亦黃玉 青玉 紅玉 亦 黄玉
幾億玲瓏宇宙盈 幾億 玲瓏として 宇宙に盈つ

満天の星空には、サファイア、ルビー、トパーズなどの宝石の音が満ち満ちています。
五感が錯誤する詩の世界。
現実ではありえない世界の創造もまた、詩の真骨頂であり醍醐味です。


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星有瓊音天有調 星に瓊音有りて 天に調べ有り
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銀河珠寶散縱橫 銀河の珠宝 散りて縦横
○●○●●○●
靑玉紅玉亦黃玉 青玉 紅玉 亦 黄玉
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幾億玲瓏宇宙盈 幾億 玲瓏として 宇宙に盈つ

仄起式、起句踏み落とし「橫」「盈」下平声・八庚の押韻です。

転句は「~玉」と羅列しているので一目瞭然ですが、二字目は平仄式のルールが守られていません。本来は絶対に許されないことですが、もとの詩の内容を尊重して、あえて破っています。ほかの種類の宝石を用いて平仄を合わせるのは簡単ですが、今回はルールよりも原作者と筆者の詩情を優先しました。


訳詩に詩情はあるのか?

詩を翻訳すること、あるいは、その翻訳した詩を訳詩といいます。今回は、現代の日本語の詩を漢詩に翻訳したので、非定型詩からさらに韻律の厳しい古典の定型詩へと訳詩したわけです。

漢詩の読み下し文も、漢文(漢詩)を日本語(読み下し文)に翻訳しているので訳詩です。これは、漢文と共通する語句を用いる日本語だからこそできる素晴らしい翻訳手法であるわけですが、半ば機械的に訳されるので、返りと送りを付す以外は、あまり訳詩者に創作の余地はありません。

しかし、古来、漢詩を愛してきた日本人は、読み下し文にするだけでなく、その詩を和歌に翻訳したり、また和歌のモチーフにしてきました。小倉百人一首に収められている大江千里《おおえのちさと》の短歌は、白居易「燕子樓《えんしろう》」をもとにしています。

月見れば 千々《ちぢ》にものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど


燕子樓中霜月夜 燕子楼中 霜月の夜
秋來只爲一人長 秋来《きた》って 只 一人《いちじん》の為に長し 

「燕子樓」は、転結句のみを抜粋しました。「燕子樓」とは、白居易の時代の徐州の長官・張尚書の邸内の楼閣のことで、張の死後、その妾が長い間、ひとりで暮らしていました。

この詩は、その燕子樓の窓から月を眺めては「秋の夜は、先立たれたひとり身の私にはなんと長いことか」と嘆き過ごした、という悲しみを詠んだものです。

この二つの詩は、ともに「悲しみでひときわ長く感じられる秋の夜」を歌っているのですが、「燕子樓」の「ただ私ひとりのために長い」を受けて、大江千里は「ただ私ひとりのための秋ではないけれども」と、違った表現でアレンジしています。細かいニュアンスの違いがわかるでしょうか?

もう一つ例を挙げてみましょう。

まずはもとの漢詩、于武陵「勸酒(酒を勧む)」
 

勸君金屈卮 君に勧む 金屈卮《きんくつし》
滿酌不須辭 満酌 辞するを須《もち》いず
花發多風雨 花発《ひら》いて 風雨多し
人生足別離 人生 別離《べつり》足る

「金屈卮」とは、金の大杯のこと、「辞するを須《もち》いず」とは「どうかこの酒を断らないでくれ」という意味です。この詩を作家・井伏鱒二《いぶせますじ》は次のような七五調の純粋な日本の歌に翻訳しました。
 

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

かなり思い切った訳詩ではないでしょうか。読み下し文ともまったく違った印象を受けます。読み下し文のような漢詩らしい厳かな格調はありませんが、軽快さと親しみを感じる独特な味わいがあります。

翻訳の目的はもちろん、その言語で原文の内容を読み手に伝えることです。正確にその意味や内容を伝えなければなりません。しかし、翻訳者が自身の思想や理念をもって翻訳をしている以上、その文章に翻訳者の個性が入らないことはありません。

詩文においてはなおのことです。訳詩者が、もとの詩を読んで感動した上で、訳詩をしているわけですから、訳詩者の詩情が含まれていないはずがないのです。

当然のことですが、そもそも翻訳は原文を100%再現することはできません。違う言語に変換するのですから、それぞれの語彙や文法が完全に同じでない以上、原理的に不可能なのです。

これは、翻訳の過程で原文から失われてしまっている部分がある、ということです。詩文であれば、詩の本体たる詩情すら、それを免れることはできません。その作品をもとのまま100%味わいたかったら、原文で読むしかないのです。その代わり訳詩には、原文にはなかった訳詩者のセンスや感性が含まれています。

 「只、一人の為に長し」「わが身ひとつの秋にはあらねど」
 「人生、別離足る」「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」

その味わいの違いを感じてみてください。訳詩者独自の詩情があるということは、その訳詩にはまた新たな詩情が吹き込まれ、新たな詩文にもなり得るということです。

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