漢詩徒然草(4)「水族館」

平兮 明鏡
2021/8/1

錦繡珊瑚深似壑 錦繍の珊瑚 深きこと壑の似く
綾羅魚隊繞如雲 綾羅の魚隊 繞ること雲の如し
仰天百尺水晶匣 天を仰げば 百尺 水晶の匣
南海波聲此裏聞 南海の波声 此の裏に聞く

錦繡 … 錦の刺繍の絹織物
綾羅 … 綾絹《あやぎぬ》と薄絹《うすぎぬ》
百尺 … 30m
波聲 … 波の音


筆者は水族館が好きでよく行くのですが、行くたびに感心するのが、水族館そのものの高度に洗練されたレイアウトやデザインです。

錦繡珊瑚深似壑 錦繍の珊瑚 深きこと壑の似く
綾羅魚隊繞如雲 綾羅の魚隊 繞ること雲の如し

主役である魚たちの舞台である水槽内の珊瑚や岩盤の配置はもちろんのこと、いろんな角度から鑑賞できる立体的な視点、屋内と屋外を行き来する無駄のない観覧ルート、見えないところでは浄水設備の設置など、一種の総合芸術の趣きを感じます。

それは一つの建物に中に、まるで海をそのままに移してきたかのようです。「移す」ではなく「写す」と言ってもよいかもしれません。
 

「虚構」と「現実」について

絵画、彫刻などの作品、あるいは詩や小説などの文学もそうなのですが、そのような創作には、はじめにモチーフがある場合がほとんどです。つまり作品は、そのモチーフをもととして、多かれ少なかれ必ず「虚構」が混じるようになっています。

しかし、この「虚構」というのものは、決してマイナスのイメージで言っているのではありません。むしろ、それこそが作者の「思い」が入り込む余地であり、創作の真骨頂でもあります。

のちの漢詩講座で、このようなお話をします。

詩作の教えの一つに、「事実であっても必要ないものは詠まない、事実でなくても必要なものなら詠む」というのがあります。詩は「事実」ではなく、「真実」を詠むものだからです。

「真実」という言葉を使っていますが、ここでは「作者の思い」と読み替えてみてください。つまり、詩とは「現実」を詠むのが目的ではなく、「現実」を「虚構」でアレンジして「思い」を詠むものである、ということです。

これは、あらゆる創作活動でも同じことで、創作とは「現実」を作り出すのではなく、「作者の思い」が込められた「新しい世界」を作り出すものです。そして、作品に「思い」が込められた瞬間に、「虚構」は「現実」になり、また「現実」をも超えうる「真実=本物」にもなります。これは魔法のようなもので、創作の持つ大きな魅力の一つでもあります。

仰天百尺水晶匣 天を仰げば 百尺 水晶の匣

水族館も「現実」に「虚構」を織り交ぜた創作と言えるのではないでしょうか?

水族館に行くと、それを作った人たちの海や魚たちに対する「造詣の深さ」や「思いの深さ」を感じます。はじめに水族館を「海をそのまま移(写)した」と表現しましたが、この海の世界を「移す、写す」ということも、「思い」を「移す、写す」ことだと思うのです。「思い」を「移す、写す」からこそ、その世界は「本物」になります。

   「虚構」にして「現実」、「現実」にして「虚構」であり、
また、「再現」にして「独創」、「独創」にして「再現」です。

南海波聲此裏聞 南海の波声 此の裏に聞く

聞こえてくるその波音は「虚構」ですが、間違いなく「本物」の波音です。
あなたも南海の風に吹かれながら、水族館の回廊を歩いてみませんか?


●●○○○●●
錦繡珊瑚深似壑 錦繍の珊瑚 深きこと壑の似く
○○○●●○◎
綾羅魚隊繞如雲 綾羅の魚隊 繞ること雲の如し
●○●●●○●
仰天百尺水晶匣 天を仰げば 百尺 水晶の匣
○●○○●●◎
南海波聲此裏聞 南海の波声 此の裏に聞く

仄起式、「雲」「聞」上平声・十二文の押韻です。

詩題の水族館は、中国語でもそう言うそうです。水族館も現代のものですので、その描写をどのように表現するかは、苦心のしどころです。転句では「百尺の水晶の匣」という比喩を用いて、巨大な水槽を表現してみました。

これら、昔にはない風物をどう表現するのか?については(2)「智能手機《スマートフォン》」でもお話しています。

起承句は対句です。対句については、いずれ漢詩講座でも取り上げます。対の表現を用いるレトリックの一つです。対句は通常、はじめの句を踏み落とすので、この句もそのようになっています。

「珊瑚」や「魚隊」の色彩を「錦繡」や「綾羅」といった美しい織物に喩《たと》え、その姿や動きを「壑」や「雲」に喩えています。それぞれ、どのような構造で「対」になっているか、確認しながら読んでみてください。

←漢詩徒然草(3)「蟷螂」へ | 漢詩徒然草(5)「七夕」へ→

page up