漢詩徒然草(7)「時計臺」

平兮 明鏡
2021/11/1

嘗集扶桑鎭守才 嘗て集う 扶桑 鎮守の才
洋々航路海天開 洋洋たる航路 海天開く
空庭今日落楓裏 空庭 今日 落楓の裏
鐘韻猶傳時計臺 鐘韻 猶伝う 時計台

扶桑 … 日本のこと。もとは神木の名
洋洋 … 広々として果てしないさま
海天 … 海上の空
空庭 … 人気《ひとけ》のない庭
落楓 … 楓の落葉
鐘韻 … 鐘の音


今回は、少し舞台の説明を補足しないと、意味がわかりにくい詩となっています。詩題も「呉鎮守府《くれちんじゅふ》」とでもすべきところですが、あえて今回のテーマの象徴とでもいうべき「時計臺」としました。

この詩は、広島市の呉港《くれこう》を訪れたときに作ったものです。呉港は明治時代に呉鎮守府が設立され、以降、軍港・工廠として発展し、国家の鎮護を担ってきました。

嘗集扶桑鎭守才 嘗て集う 扶桑 鎮守の才
洋洋航路海天開 洋洋たる航路 海天開く

現在でも周辺には、レンガ造りの旧呉鎮守府庁舎(現:海上自衛隊呉地方総監部庁舎)など、多くの歴史遺産が残されています。ほかにも、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)や海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)など、見どころ満載の歴史情緒溢れる港街となっています。

この一帯は、今でも日本有数の造船業の盛んな地域ですので「夏草や兵どもが夢の跡」というわけではありませんが、それでも港に立つと、かつて大海原へと出港していった艦船を想像して、懐古の念を覚えずにはいられません。

時間の流れをどう詩に詠むのか?

入船山《いりふねやま》記念館(旧司令長官官舎)の門の先には、かつての呉海軍工廠造機部屋上に設置されていた塔時計が移設されています。これ以上に、時間の流れを象徴する建築物はないでしょう。

道具とは人が使うために作られたものです。その役割を考えると、自ずとそれにどんな思いが込められるのかわかるのではないでしょうか?時計とは、もちろん時刻を知るためのものですが、それは同時に開庁以来、呉鎮守府の時を刻んできたということでもあります。時計には、歴史を刻むという役割もあるといえるでしょう。そして、時は流れ……、

空庭今日落楓裏 空庭 今日 落楓の裏
鐘韻猶傳時計臺 鐘韻 猶伝う 時計台

そこには当時をともに生きてきた人々の姿はすでになく、時計台はひっそりと落葉のうちに時刻を告げます。ただのものであるはずの時計が、痛烈に感情に訴えてくるのはなぜでしょうか?

それは、時計が単に時を刻むというだけではなく、二度と戻らない過去の出来事を想起させるからです。二度と戻らないからこそ、時の流れは人を感傷的にさせます。

時計台に「その思い」を込めた瞬間から、その鐘の音はただ時刻を告げているだけではなくなるのです。それは、古き時代への哀愁や哀悼かもしれませんし、あるいは懐旧や憧憬かもしれません。

そして、呉鎮守府や呉工廠はもうありませんが、その遺志は、造船業や国家防衛の拠点として、今でもこの地に受け継がれています。時間は過去だけでなく、未来にも存在しているのです。時計が刻む時間も、過去や現在だけだとは限りません。それが刻んでいるものは、未来への展望や希望なのかもしれないのです。

その「鐘の音」は、あなたにはどのように聞こえるのでしょうか?


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嘗集扶桑鎭守才 嘗て集う 扶桑 鎮守の才
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洋洋航路海天開 洋々たる航路 海天開く
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空庭今日落楓裏 空庭 今日 落楓の裏
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鐘韻猶傳時計臺 鐘韻 猶伝う 時計台

仄起式、「才」「開」「臺」上平声・十灰の押韻です。

詩題や結句の「時計臺」は、本来は和習で、使ってはいけない語ですが、ぴったりイメージに合う語がなかったため、あえて用いました。また、起句の「鎭守」もそのようにしか表現しようがないため、そのまま固有名詞的に使用しています。このように「どうしても使いたい!」という思い入れのある言葉は、思い切って使ってみるのも手です。

本文中でも見てきたとおり、起承句は「過去の呉鎮守府」、転結句は「現在の呉港」の描写です。その過去と現在を繋いでいるのが、今回のテーマを象徴する「時計臺」です。時間の流れを詩に詠みたいときは、過去・現在・未来を、どのような構成で配置するのかをよく考えてみましょう。


その時、時計は動くのか?止まるのか?

時計を題材にした有名な歌に「大きな古時計」があります。近年、シンガーソングライターの平井堅さんが、カバーして大ヒットとなったのが記憶に新しいところです。
 

 
その歌詞は劇的で、聞き手に強烈に命の終わりを印象付けます。ケレン味が溢れるといってもいいほどですが、実は実話をもとにしているそうです。興味のある方はこちらをどうぞ(Wikipedia「大きな古時計」)。

この古時計は、お爺さんの死と同じくして止まってしまいます。つまり、お爺さんといっしょに時計もその終わりを迎えたわけですが、これは時計に「命の終わり」を仮託しているということです。

さらに、お爺さんと生き死にをともにすることによって、時計を擬人的にとらえています。終焉というテーマを時計に仮託しているのには違いはないのですが、時計をモノ以上のものに見立てて、さらに感情移入を誘っています。この歌詞が非常に感傷的に感じるのも、これがその理由の一つです。

では、この古時計、このとき、もし止まっていなかったとしたらどうでしょうか?

その場合、あくまで「時を刻む」という、時計としての本分が印象付けられるでしょう。なおも動いている時計は、「お爺さんとともに生きた過去」を思い出させると同時に、さらに「お爺さんがいなくなったあとの未来」をも連想させます。そこには、主人亡きあと、ひとり時を刻む時計の哀愁が際立ちます。

その時、時計は動くのか?止まるのか?

それだけでも、時計はその役割を変えることになるのです。それは、作者が時計に「どのようにテーマを反映させるのか?」という意図のあらわれでもあります。ものを題材に詩を作るときは、その「もの」に、どのような「思い」を仮託させるか?というところに詩作の妙があるのです。

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