漢詩徒然草(5)「七夕」

平兮 明鏡
2021/9/1

今夜竹竿多寸紙 今夜の竹竿 寸紙多し
乞祥乞壽乞華資 祥を乞い 寿を乞い 華資を乞う
雙星宿願有誰遂 双星の宿願 誰有ってか遂げん
萬里迢遙雲漢涯 万里 迢遥たり 雲漢の涯

寸紙 … 小さな紙きれ。ここでは短冊のこと
壽 … 長生きすること。ことぶき(お祝い)ではない
華資 … 地位や名声
雙星 … ここでは織姫星と彦星のこと
宿願 … 以前から抱いていた願い
迢遙 … はるかなさま
雲漢 … 天の川


ちょうど七夕の時期でしたので、今回は「願い事」をテーマに詩を作ってみました。もしかすると「七夕は2ヶ月も前じゃないか」と思っている方もいるかもしれませんが、令和3年の七夕は8月14日です。もっともこれは、旧暦でいうと、ということですが。

今でこそ、七夕祭りは新暦の7月7日に行うことがほとんどですが、七夕祭りの意義を考えるのであれば、旧暦で行う方が圧倒的にふさわしいのです。

旧暦7月7日は初秋に当たります。新暦の場合とは、1ヶ月以上の開きがあり、気候や星の配置が大きく異なります。旧暦の七夕は、新暦の七夕より空は澄みわたっていて、天の川や星の位置関係も七夕の物語にピッタリあったものになっています。

新暦になる以前の七夕は当然、旧暦で行われてきました。暦は本来、すべての行事がその時期や気候にあうように決められていますが、明治期後、旧暦を無理矢理、新暦に当てはめたので、ズレが生じたのです。まだ梅も咲いていない新暦の正月を「新春、迎春」というのもそのためです。

その七夕祭りは、古来、乞巧《きっこう》のお祭りでした。乞巧とは「巧み(上手)になることを乞う(願う)」ことで、七夕祭りのことを乞巧奠《きっこうでん》ともいいます。果物などのほか、鮮やかな布や糸をお供えして、針仕事や機織り《はたおり》が上手になるように祈ります。上達を願う、といっても針仕事の上達のことなのです。

それでは誰に祈るのでしょうか?
そう、「織姫に」です。
ここで七夕の物語と話が繋がりました。

乞巧奠と七夕の物語が関連付けられたのは、大昔の中国からですが、日本では、いつのころからか短冊に願い事を書いて笹の葉に飾るようになりました。機織りである織姫だからこそ針仕事の上達が祈願されていたわけですが、今の日本では、それとはまったく関係のない願い事をしてしまっているわけです。

今夜竹竿多寸紙 今夜の竹竿 寸紙多し
乞祥乞壽乞華資 祥を乞い 寿を乞い 華資を乞う

そもそも、織姫自身が一年に一度しか夫に会えないというのに、その大切な日にいろんなお願い事をされるというものも、なかなか酷な話です。

「一年で一番大事な日なのに、どうして私が?むしろ私のお願いを叶えて欲しい!」

と思っているかもしれません。

人は願わずにはいられない生きものです。叶わぬ願いがあるからこそ、願い事をします。しかし、願い星は一体、何を願っているのでしょうか?そう考えたとき、また新しい道が開けるかもしれません。

「願いをどう叶えてもらうか?」ではなく「願いはどう叶えてもらいたがっているか?」。奇妙に聞こえるかもしれませんが、願いそのものと対等に真っ正面から向き合うということです。すると、自然と「今の自分は、はたしてその願いにふさわしいだろうか?」ということに気付くはずです。

その願いを叶えるために今まで何をしてきたか?その願いが叶ったならば、そのあと何をしていくのか?それがわかったときに、はじめて「願い事をする」ということの本当の意味かわかるのではないでしょうか?

雙星宿願有誰遂 双星の宿願 誰有ってか遂げん
萬里迢遙雲漢涯 万里 迢遥たり 雲漢の涯

願うということは、はるか彼方の銀河の果てを望むようなものです。しかし、本当に大切な願いとともに人生を歩むことができたのなら、それ自体が素晴らしい生き方になっていくことでしょう。もしかすると、それこそが願いを叶える近道となるのかもしれません。


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今夜竹竿多寸紙 今夜の竹竿 寸紙多し
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乞祥乞壽乞華資 祥を乞い 寿を乞い 華資を乞う
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雙星宿願有誰遂 双星の宿願 誰有ってか遂げん
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萬里迢遙雲漢涯 万里 迢遥たり 雲漢の涯


仄起式、起句踏み落とし「資」「涯」上平声・四支の押韻です。

《たなばた》は、もとは「棚機」の字から当てられた読みで、「七夕」を漢語的に音読みするなら《しちせき》です。漢詩では熟語を読むときは、基本的に音読みを用い、訓読みや当て字は用いません。前々回の「智能手機」は、中国語だったので、わかりやすいように、あえて当て字を用いました。

起句では「短冊」のことを言っていますが、この語は和習ですので、このままでは使えません。ですので「寸紙」としたわけですが、この部分は、はじめは「綵絲《さいし》」としていました。「綵絲」とは彩色を施した糸のことで、本文中でも説明したとおり、もともとの「乞巧奠」では、機織り上達の祈願のために「綵絲」をお供えしていました。

しかし、もちろん現代の日本ではそのような風習はありません。つまり、たとえ昔の中国と同じ行事であっても、様式が大きく変化しているので、そのまま用いることができないのです。これも一つの和習といえます。

昔から続く風習も時代とともに変化していきます。しかし今回のように、もとの風習の意味を知ることで、視野が広がることもあります。古来の風習が現代の私たちに新しい何かを気付かせてくれるというのは、まさに「温故知新」ですね。織姫に機織りに使ってもらえるよう、たまにはちゃんと「綵絲」をお供えしてみてはどうでしょうか?

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