蓮花と荷葉

山田 真隆
2021/8/8

仏教を体現する蓮の花。

言うまでもないが、一つには蓮の持つ泥の中から咲き出でるという習性を、煩悩という心の汚泥の中からでも、悟りという花を咲かせるということに見立てている。蓮華の五徳の一である。五徳なので他に四つあるが、ここでは詳しく述べない。

ちなみに、かの達磨と問答をした中国南北朝時代の梁《りょう》の皇帝である武帝《ぶてい》が、治世後半の暴政から反乱が起こり、捕らえられ牢獄で憤死する直前に放った言葉が「荷《か》、荷」だったと伝わっている(『十八史略』)。この場合の「荷」の解釈は諸説あるが、荷は蓮のことでもある。

もし悟りというものが実体化したならば、あの蓮の花の威厳に満ちた佇まいは、まさにそれに相当するだろう。世の中にある花の中でも、習性といいその姿といい、まさに仏花となるべく現れたのではないかと思うほどである。


それに引き換え、あまり目立たないのが蓮の葉のほうである。一応蓮の花とコンビを組んで、本堂の須弥壇《しゅみだん》の花飾りなどに、鎮座してはいるが、花の方と比べ地味である。

その地味な蓮の葉のことは荷葉という言い方がある。蓮の葉の特徴で、仏法の喩えとして示されるのが「円い」ということ。

  荷葉団々《かようだんだん》として鏡よりも円《まど》かに

という偈もある。上下左右が無く、角も無い円という図形の特徴が、仏の教えに適っている。禅宗では仏心の喩えとしても、円相図としてよく示されてきた。その円を体現しているのが蓮の葉ということで、蓮の花ほどのインパクトはないかもしれないが、改めてみると、教えの体現度では引けを取っていないと思う。


そして最近になって蓮の葉を改めて見直すことになった。植物図鑑を見ていて知ったことだが、蓮の葉の表面はクチクラという防水性の蝋質で覆われているのだという。何でも、もとは水中で進化した植物が陸に上がった時に、体内の水分の蒸発を防ぐための名残だそうだ。

水は通さないクチクラだが、半透明で光合成に必要な光は透過させるという、実にスグレモノである。

さらにクチクラは、その蝋質のため水をよく弾く。蓮の葉の表面に小さな水滴がついているのを見た人もいるだろう。はじかれた水滴は葉に沿って進む過程で、光合成の妨げになる葉の汚れを取ってきれいにし、光を十分に葉の細胞まで届くようにしている。雨の多い日本では、かなりの頻度で葉を洗うことができるだろう。
 

 
雨水を使うので「自浄」とまでは言わないが、いわゆる「洗浄機能」がついているのが、蓮の葉なのである。晴天だけでなく雨天をも活かし切るそんな習性に、それを知った私もうれしくなってくる。

良く出来ているなあと感心すると同時に、また仏法を連想せずにはいられない。

人も、心の形を蓮の葉に見るだけでなく、その洗浄の機能までもあやかって、心を洗ってみたいものである。
 

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