初めての人のための漢詩講座 24

平兮 明鏡
2021/11/15

第三章 漢詩を作ろう

*上級編! 漢詩に日本語は使えない!

 Blow, 風, blow!
 And go, 風車, go!
 That the 粉屋 may
 ひく his 小麦;


という英文が出てきたら、みなさんどう思うでしょうか?誰が見ても「おかしい!」と思うはずです。英語で文を書く以上は、すべての単語を英語で書かないといけません。

しかし、みなさんは、漢詩になったとたん平気でこれをやってしまうのです。漢詩とはあくまで漢文、つまり昔の中国語で詠まれた詩のことです。当然、漢文の言葉(漢語)で綴られていなければなりません。

漢詩の中に日本語を入れるというのは、上のように英語の中にいきなり日本語が交じるのと同じことです。これを和習といいます。たとえば、

「船越荒波渡海原(船は荒波を越えて 海原を渡る)」

という句を作ったとします。一見、漢詩として成り立っているように見えますが、実は「荒波」と「海原」は、日本語であって漢語ではありません。基本的に訓読みしている語は日本語だと思ってよいでしょう。

「船越驚波渡大洋(船は驚波を越えて 大洋を渡る)」

などとすべきです。

このように、中国由来の言葉のように見えて、実は日本人が作った語は数多くあります。そして、日本人は普段から漢字を使っているので、この漢語と日本語の区別がついていません。

逆の言い方をすると、多くの言葉を中国から取り入れて使っているにもかかわらず、それらをすでに日本語にしてしまっているということです。これはすべての国の言語に同じことが言えます。

普段、日本語で話すときは何の問題もありませんが、いざ漢詩を作ろうとすると、これは大きな障害になります。漢語に思える言葉でも、「はたしてこの語は漢語だろうか?」と、必ず辞書を調べなければなりません。辞書を調べると、和習の語は(国)と表記があります。

当然ですが、日本にしかないものは和習にならざるをえません。

たとえば、神社に関する言葉、「神宮」「本殿」「鳥居」などです。これらを他の漢語に置き換えることもありますが、その場合、その言葉が本来持つ正確な意味や雅やかさが失われてしまいますので、和習を許容することもあります。

これは、人名、地名などの固有名詞にも同じことが言えます。固有名詞は変換そのものが不可能ですので、許容せざるをえません。

私たちは漢詩を作るとき、身の回りのことや普段の生活のことを詠む場合が多いのですが、自然の風景を詠む場合はともかく、現代社会の生活や人生を詠もうとすると、なかなかそれに合う漢語が見つかりません。

たとえば、テレビや飛行機やインターネットは、唐の時代にはなかったものですから漢語があるはずがありません。この場合は、現代の中国語で置き換えるとよいでしょう。

テレビは「電視・電影(映画)」、飛行機は「飛機」、インターネットは「網絡」などです。中国語の翻訳は、インターネットの中国語辞典で簡単に調べることができます。

詩は本来、その場その時の人生の感動を詠むものです。昔の中国になかったからといって、それを詠むのをはばかる必要はありません。もし、普段の感動を詠めないのであれば、それはもはや死んだ文学です。

和習を使うときに大切なことは和習とわかった上で使うことです。人によっては、和習のある漢詩は漢詩ではない、と言う人もいます。しかし、本来の正しいルールを知っていれば、許容しても大きな間違いをすることはないでしょう。覚悟をした上で使ってください。


最後にいくつか、ミスしやすい和習の語を挙げてみましょう。

「人間《じんかん》」

読みは「にんげん」ではありませんし、「にんげん」という意味もありません。「人の世」という意味です。単純に「にんげん」と言いたいのであれば、「人」で十分です。

織田信長が好んだといわれる幸若舞「敦盛」の一節、「人間《じんかん》五十年、化天《けてん》の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の意味は、「人の寿命は五十年」ではありません。

化天とは、仏教の世界観における天界の一部で、化天の一日は人間界の五十年に当たるとされています。よって正しい意味は、「人の世の五十年は、化天の一日にしか当たらない」です。 信長の時代は「人間」が、まだ漢語の意味で使われていたのです。(「化天」は「下天」とする説もある)

「桜」

「桜」は漢語ではユスラウメのことです。低木でサクランボのような実をつけます。桜は日本の代表的な風景の一つですので、漢詩に詠まれることも大変多いのですが、わざわざ置き換えるのも風情が損なわれますので、そのまま「桜」が使われることがほとんどです。

植物や動物を表す語は、ほとんどが日本語と漢語で意味が違います。使う前に辞書でしっかりと調べましょう。

「夢」

寝ているときに見る夢です。将来の夢、といった意味は和習であり使えません。希望のような意味の夢は、もともと英語のdreamから入ってきた意味です。

新暦と旧暦

元来、暦は農作業など生活と密接な関係がありました。しかし、明治以降、新暦が用いられるようになり、現代の暦では実際の季節とズレが生じています。

旧暦では1~3月が春で、新暦とは1ヶ月ほどのズレがあります。現代の1月は寒い時期ですが、お正月は本来、迎春と言うように本当に春を迎える季節でした。同じように、旧暦七月七日の七夕は秋の初めであり、夏ではありません。七夕は詩語集では秋の項目にあります。

逆に中秋の名月は、中秋と言うように秋のちょうどまん中、旧暦八月十五日の満月のことです。満月を鑑賞するには本来の季節(新暦の九~十月)にせざるをえませんので、中秋と言っているにもかかわらず、新暦の日付とは対応していません。

実際に漢詩を作るときは基本的に旧暦を用い、どうしても矛盾が生じる場合は新暦で言うとよいでしょう。お正月(新暦)の詩なのに、旧暦に合わせてわざわざ十二月と言うのはおかしい、ということです。

単位

単位も暦と同じく、日本と中国、また時代によって大きく異なります。たとえば、距離の単位の「里《り》」は日本語では4kmですが、昔の中国では400mほどです。「十里、散歩する」というのは日本語ではありえませんが、漢詩で十里というと歩けない距離ではないわけです。

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