清流無間断~いのちという流れの中で
絶えることの無い水の流れ
8月に入り、毎日暑い日が続いています。そこで今回は、山水の清涼感を感じる禅語をご紹介したいと思います。
「清流無間断 碧樹不曾凋」
(清流、間断無く 碧樹、曾《かつ》て凋《しぼ》まず)
清らかな水の流れは絶える事がなく、杉や松のような常緑樹はいつも青々として凋む事なく碧を保ち続ける、という意味になります。
この禅語が示す教えとはどのようなものでしょうか。前花園大学学長・細川景一《けいいつ》老師はこの禅語について、次のように解説をされています。
禅家がこの句を好んで用いるのは、ただ単に情景の清々しさだけではありません。仏教の始まりはいうまでもなく十二月八日早暁、釈尊が菩提樹の下で坐禅を組まれ、悟りを開かれたのに始まります。そしてその心を、以心伝心、心から心へ一器の水を一器の器に移すが如く、仏々祖々、的々相承されて今に伝わっているのです。その間、一度も跡切れた事がないのです。その辺の消息を、『清流間断無く、碧樹曾て凋まず』というのです。しかし、そこで終わってしまってはこの句に参じたとはいえません。この句から一度も絶える事のない命脈を継ぎ得た大きな感激を読みとらねばなりません。」
(細川景一『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』禅文化研究所刊より引用)
お釈迦様の教えは、清らかな川の流れが絶えることのないように、弟子の摩訶迦葉尊者《まかかしょうそんじゃ》に、そして阿難尊者《あなんそんじゃ》へと伝わり、そののち達磨大師や臨済禅師といった多くの祖師方が引き継がれ、今に続いています。
「お釈迦様の教え」とか「悟り」などというと、なんだか自分とは縁遠い世界の話に感じるかもしれません。しかしこの禅語は、私たち一人一人と関りがあるものなのです。
授かりもの
臨済宗方広寺派大本山・方広寺の管長様に、大井際断《さいだん》老師という方がいらっしゃいました。際断老師は大正4年2月26日にお生まれになり、平成30年2月27日に103歳で遷化《せんげ》(お亡くなりになること)されました。遷化の3日前まで大衆坐禅会(一般参加の坐禅会)でご法話をされるほど、精力的にご活躍され、「生涯現役・臨終定年」を体現されたような方でした。
そんな際断老師が100歳の時、あるテレビ番組のインタビューを受けることになりました。その時には、ある女優さんがインタビュアーをお務めになり、際断老師に様々な質問をされました。そのなかに「いのちとは何ですか?」という質問がありました。
際断老師はその質問に、たった一言「うーん、『授かりもの』やねぇ」とお答えになりました。この「授かりもの」という言葉は大変に意味深いものだと思うのです。
釈尊の教えが脈々と伝わってきたのと同様に、私たち一人一人のいのちというものも、突然生じたものではありません。まず両親の存在があり、その先には祖父母の存在があり、そのさらに先には数限りないご先祖様方がいらっしゃって、長い年月をかけてつながってきたものなのです。
私たちは、その大きないのちの流れのなかで、たくさんの人や自然の恵みなど多くのご縁に支えられ、今ここに生きています。そんな私たちのいのちを、際断老師は「授かりもの」と端的にお示しになったのです。
いのちという流れの中で
今ここにある自分というものを「大きないのちの流れのなかで、授かったもの」と見るならば、先にご紹介した禅語「清流間断無く、碧樹曾て凋まず」も、実は私たち一人一人の「いのち」を指していることがわかります。
私たちは、自分が生まれてから死ぬまでを「自分のいのち」と見てしまいます。しかし、本当は自分が生まれる前から大きないのちの流れは脈々と続いてきており、自分が死んだとしても、それは絶えることがありません。すなわち、自分の生も死も、実は大きないのちの流れのなかにあるのです。
この大きないのちのことを、「仏の御いのち」とも「仏心」とも申し上げるのですが、そのなかにあるということは、お釈迦様も、祖師方も、私たちのご先祖も、そして現代を生きる私たちも、何ら変わりがないのです。
限りのある「自分のいのち」と思っていたものは、実は絶えることの無い「仏の御いのち」のなかにあった。そこに目覚めて「安心《あんじん》」をいただく事を、私たち禅宗ではとても大切にしているのです。
さて、今年もお盆の時期になりました。先に申し上げましたとおり、清流が絶えることなく続いているように、大きないのちの流れのなかで、「今ここ」を生きている。それが私たちです。ご先祖様方をご供養することを通じて、自分が授かったいのちの尊さというものに、改めて目を向けていただければ幸いです。
※この記事は、臨済会発行『法光』令和4年お盆号に掲載されたものを加筆修正したものです。