ほとけの眼~あるがままに見る

秋のお彼岸を迎えて
秋のお彼岸を迎えると、厳しかった残暑も少しずつやわらぎ、秋の訪れを実感するようになってまいります。そんな秋の夜の風物詩と言えばやはりお月様でしょうか。
月に因んだ禅語というものはたくさんありますが、その中の一つに、
「月在青天水在瓶」
(月は青天に在って水は瓶《へい》に在り)
という語があります。細川景一《けいいつ》師はこの禅語について、次のように解説をされています。
「月は青天に皎々と輝き、水は瓶の中に静かに収まっている。あたり前のことです。仏法はあたり前の事をあたり前に看て取る事です。柳は緑、花は紅、眼は横に、鼻は縦に、犬はワンワン、猫はニャンニャン、カラスはカァカァ、見るがまま、聞くがまま、あるがままの消息以外に法があるわけではないのです。そのあるがままをあるがままに見る事が大変難しい事なのです。」
(細川景一『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』禅文化研究所刊より引用)
ほとけの眼
この「あるがままをあるがままに見る事」というと、臨済宗方広寺派の管長をお務めになられた、足利紫山《あしかがしざん》老師のお話を思い出します。
紫山老師に長年参禅していた在家の方に、近都世《ちかとよ》という女性がいらっしゃいました。近さんはある日、紫山老師から「ほとけの眼を見てくるように」という公案(禅問答の問題)を出されました。その問題を受けて、近さんは寺の本堂にゆき、ご本尊様のお顔を見つめながらどのように答えようか思案にくれた、と言います。
そしていよいよ老師のもとへ「ほとけの眼を見てくるように」という問題の答えを持っていくことになりました。その時のやりとりを、近さんは著書『女人参禅記』に書いておられますので、以下にご紹介します。
〝慈悲深いお眼でした〟と老師の前で答えた。
(編集部注:文章は原文のまま、モバイルデバイスでの読みやすさを考慮して改行を変更しました)
〝届かん。見直してこい〟また本堂へかえる。
〝あたたかく寂《しず》かな〟
〝白雲万里〟(遠く届かぬ意)
〝深く澄み透った〟
〝言葉を捨ててかかれ〟
〝瞑想そのもの〟
〝頭で考えるな〟
〝悟りすました〟
〝迷宮入り〟
〝あまねく衆生を〟
〝はだかで出直せ〟
その日は暮れた。
次の日も私は本堂と、老師の隠寮を往きかえりした。答える言葉が、もう底をついてしまった。
「お前は、きれいな言葉を、たんと知ってるのう。小坊(三男・九歳)は何というかな、聞いてごらん」
わたしは、寺へ一緒に来ていた子供を仏像の前に立たせ、「どんなお眼だと思う?」と聞いてみた。
子供は即座に、「細長いなあ、仏様の眼」
「なあんだ。つまらない。そんなこと始めから、わかってるじゃない」と焦らだちながら、「もっと別なこと言ってごらん」とせっついたが、「僕、わかんない」と、言う。
仕方がないので、子どもをつれ、老師の前に出て、おそるおそるお答えすると、「おお、そうだったか、よしよし」両手の指で御自身の眼を、すーッと横へ静かに耳の辺まで引き、「こんなになーがいお眼だったなあ……小坊」と大きくお笑いになった。
仏といえば、仏という観念で、鬼ときけば、おそろしいときめてかかる大人の盲点を鋭く衝いた老師の警策《けいさく》であった。
〝あるがままをあるがままに〟ということが、いかにむずかしいか。文学、絵画はいうに及ばず、日常生活すべてに通う真理だと、自分の胸に刻まれ、それが実地に生きるまでには、長い年月を経なければならないようだ。
近さんも、細川師と同様に「あるがままをあるがままに見ることは難しい」とおっしゃっています。考えてみますと確かにそのとおりで、私たちは物事を見るとき、いつのまにか自分の知識や経験、感情といったフィルターを通してしまう癖があるようです。
「仏さまとは尊い方である」という固定概念があると、近さんのお子さんが言った「細長い眼」というような答えは決して出てこないでしょう。だから紫山老師は近さんが答えを持ってくるたびに、「言葉を捨ててかかれ」とか「頭で考えるな」と突っぱねて、そうした固定概念を捨て、物事をあるがままに見るように厳しく導かれたのだと思うのです。
あるがままに見る
このようなことは私たちの身の回りでもよくあることです。例えば、人からアドバイスを受けたときなどはどうでしょうか。普段から良い印象を持っている人からの言葉ならば「あぁそうか。自分のこういうところが良くなかったんだな」と素直に受け止めることができるでしょう。更には「あの人は、自分のことをよく見てくれているなぁ。有難いな。」などと感謝の気持ちまで湧いてくることもあるかもしれません。
一方、同じアドバイスを受けたとして、それが印象の悪い人からの言葉だったらどうでしょうか。「こいつめ、また私のやることにケチをつけてきたな。本当に嫌な奴だ。」など思い、アドバイスを素直に受け入れることができないばかりか、相手に対して腹を立てるようなこともあるかもしれません。
こう考えていくと、身の回りで起きた出来事をどのようにとらえるかは、私たちひとりひとりの心の問題だとわかります。同じ物事を見たり聞いたりしても、イライラする人もいれば、素直にそれを受け止めることができる人もいる。
何かにとらわれる事なく、物事を「あるがままに見る」ということは、私たちが安らかな心で生きるために大切なことなのではないでしょうか。
お彼岸の時期になりましたが、「彼岸」とはもともと、迷い苦しみのない安らかな仏の世界を指します。そして、それはどこか遠い場所の事ではありません。自分が置かれた立場で、日々起きる様々な出来事をあるがままに見、あるがままに受け止めて、一生懸命に生きていく。そこにこそ、迷い苦しみから離れた安らかな「彼岸」があるのです。
※この記事は、臨済会発行『法光』令和4年秋彼岸号に掲載されたものを加筆修正したものです