今のところは【3】〜静か、動か
この連載は、松本市神宮寺様の寺報『山河』に掲載された禅人代表・山田真隆執筆のテキストを、谷川住職のご協力を得て転載したものです。(今回の記事は2022年・夏号に掲載されたものです)
『坐禅和讃』と坐禅
近年よく耳にするVRという言葉。
VRとは仮想現実という意味で、現実ではないが、現実にかなり近い体験ができるということです。
そういう坐禅の体験ができる「ZAZEN-VR」が、禅人サイトに掲載されており、まず嚆矢として神宮寺さんがその場所として挙げられています。詳しいやり方は該当のページを見て下さい。
VRゴーグルを使って仮想空間の中で坐禅というのは、本来の坐禅としては邪道であることは承知の上で、試みとして面白いので掲載に至りました。興味のある方は是非体験して下さい。
そして今回は、坐禅について考えていきたいと思います。
坐禅というと、やはり坐って行うというイメージがあります。
そのイメージとは違うことが書かれているのが、白隠禅師の『坐禅和讃』です。
『坐禅和讃』を読んで、これのどこに「坐禅」のことが書いてあるんだろう?と疑問を感じたことはないですか。それは、白隠禅師が説かれる坐禅は、坐る坐禅より、日常生活の真っ只中における坐禅に、より重点を置いているからです。
静中の工夫
例えば坐禅の説明としてよく言われるのが、泥水の喩えです。
コップの中の泥水は、かき混ぜると泥がまい上がり濁って何も見えません。でもしばらく静かに置いておくと、だんだん泥が沈殿して水が透き通ってきます。水が透き通るとコップの向こう側までよく見えます。
私たちの心も同じとして、日常の忙しさに心はかき乱され、濁った泥水になっているとすれば、泥が沈殿するまで静かに坐る、ということが坐禅だとします。
白隠禅師は、こういう静かに坐る坐禅のことを「静中《じょうちゅう》の工夫」と言い、著書の中で批判します。
私も若いときは修行の方法を誤っていて、心が静かに落ち着いたところが仏道だと思い込み、日常の活動を嫌って静かな所を好み、いつも人のいない所をさがして坐ってばかりいたのです。ですから、日常のちょっとした事にも胸がふさがり心火が燃え上がる始末で、日常生活の中での工夫は少しも出来ず、何をしていても驚いたり悲しんだりすることが多く、心も身体も常に怯弱で、両腋にはいつも汗をかき、眼にはいつも涙を浮かべ、修行によって力を得るなどということは、全くなかったのでした。
『遠羅天釜』 訳注:芳澤勝弘先生
心を落ち着けるため、煩わしい日常を避けて静かな場所で坐るという修行が誤っていた、という衝撃の内容です。そんな誤った修行をしたことで、白隠禅師は精神的に不安定な状態に陥りました。今で言う、うつ病のようなものです。
つまり白隠禅師も陥った修行の誤りは、心を静かに落ち着けようとするあまり、心のはたらきを押さえすぎて感情までも捨て去って、心が失われた抜け殻のような状態になったことではないでしょうか。
「うつろとからっぽ」 谷川俊太郎
心がうつろなとき
心の中は空き家です
埃だらけのクモの巣だらけ
捨てられた包丁が錆びついている
心がからっぽなとき
心の中は草原です
抜けるような青空の下
はるばると地平線まで見渡せてうつろとからっぽ
似ているようで違います
心という入れものは伸縮自在
空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり
谷川さんのこの詩でいうと、坐禅は心を「からっぽ」にして、はたらかせるためのものであり、「うつろ」にするものではありません。若い白隠禅師が間違えたことは、心をうつろにしてしまったということです。
うつろな心は、主のいない空き家であり、主がいないために掃除も出来ず、ほこりだらけのクモの巣だらけ、あらゆるものがさび付いて機能しない状態。肝心な時にも一切がさび付いてはたらかない。
先述のコップの中の泥水にしても、静かにすれば汚れが沈殿して水が澄んできますが、かき回すとまた濁ります。静かに人のいないところで坐っている時はいいが、日常生活に戻ると、また心がかき乱されるように落ち着かないのと同じです。
動中の工夫
本当の坐禅とは、心を伸縮自在にして充分にはたらかせていくための練習であり、それは人のいない静かなところで坐り、心を何も考えないようにして静めることではないのです。
とにかく、坐禅の時も日常生活の間も区別せずに、つねに綿密に修行していくことがもっとも大切なことです。(中略)これは静中の工夫をやめて、わざと動中に入れというのではない。とにかく、動中と静中の隔てを忘れてしまうほどに純一《じゅんいつ》に工夫し修行することが大切なのである。だから「真の修行者は、活動していても活動していると意識せず、坐っていても坐っているとは意識しない」といわれるのである。
『遠羅天釜』 訳注:芳澤勝弘先生
白隠禅師は、ここで本当の坐禅として、「動中《どうちゅう》の工夫」を説いています。
それは静中の工夫をやめることではなく、坐っている時と坐っていない時の区別をせずに坐禅することだと言います。
だから『坐禅和讃』には、殊更に坐禅に関しての記述が無いのです。坐禅とはこういうものだと示せば、それは自ずと坐ると坐らないとを区別することになるからです。
山田無文老師も、独特の表現で動中の工夫を説かれています。
蚕というものが繭を作るのは、けっして人間のためではなく、自分の安定のために作るのであります。繭の中のサナギは目も耳もない、そして悩みも苦しみもないでしょう。確かに大安楽で、その安楽の中で眠り続けることがサナギの目的であると私は思う。
『わが精神のふるさと』雄渾社
仏教界にも、どうかすると、坐禅をして、念仏をして、そうやって自分でこしらえた繭の中に坐りこんで、ここが一番安楽である、悟りである、という人がありましたら、それは眠り続けるサナギと一緒で、本当の仏教ではないと思う。見るものにとらわれず、聞くことにとらわれず、坐禅して坐ったところが禅の悟りだという方がもしありましたら、それは白隠禅師のよくいわれる、目覚めていない悟りということになりましょう。社会がどんなにに苦しんでおっても我れ関せず、見ざる、聞かざる、言わざる、坐っておるのが悟りだ、などというものがあるならば、おれはこういう奴を皆殺しにしてやる、と白隠禅師は言われた。 だから、繭を破って、蛾になって自由に世界を飛び回るところにサナギの本当の目的があるように、我を忘れた、我を捨てたところからもう一度よみがえって、社会へ飛び出して人と共に生きていく。人の悩み、苦しみを見て聞いて救って、自由にこの世界に活躍していくところに真実の仏教がなければならんと私は思うのであります。
静か、動か。
禅とは、決して繭にこもるサナギのような静的なものではありません。むしろ一生懸命に日々生活する私たちの助けとなる、動的な、躍動感にあふれる教えです。
一見静的な「坐禅」に関しても、実はそれは同じなのです。