仏典に登場する「神」「悪魔」とは?

佐々木 閑
2022/3/8

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

経典の中に「神」と「悪魔」が出てきますが、何者なのか、どういう存在であるのか、説明して頂けると有難いです。

(ペンネーム「m」さんからの質問)


Answer :

仏教においては、神々(天)や悪魔(魔)は人間と同様に輪廻を繰り返す「普通の生き物」に過ぎません。また、古代インドの神話的世界の存在ですから、現実にそのような者がいるわけではありません。しかし、その「存在のあり方」は現代社会の中にも見出すことができます。



仏教のお経を読みますと、いたるところに「天」(神々のこと)や「魔」(悪魔のこと)が登場します。

たとえばお釈迦様が菩提樹の下で修行しておられた時には、魔が修行を妨害するためにやって来ますし、お悟りを開かれた後には、天上から梵天が降りてきて「悟りの体験を他の人たちにも説き広めて下さい」と懇願します。

ほかにも大体において、天は「お釈迦様の味方」として登場し、魔は「お釈迦様の活動を阻止しようとする敵役」として現れます。では、この天や魔というのはどのような存在なのでしょうか。



まず天ですが、これは以前にもご説明しましたが、輪廻世界の中の1つの領域です。もっと簡単に言いますと、私たち人間や動物などとなにも変わることのない、普通の生き物の世界です。(編集部注:「天」と「天に住む神々」の両方を「天」と呼びます)

永遠に生まれ変わり死に変わりを繰り返す輪廻の中で、すべての生き物は自分のやったおこないに応じて、人に生まれたり、動物(畜生)に生まれたり、地獄に生まれたり、様々な領域をぐるぐるとめぐります。

その中に「天」という領域もあって、神となって(比較的)安楽な暮らしをすることができるのです。しかしそこも輪廻の一部であることは変わりませんから、やはり寿命があって、時が過ぎれば天の神も死んで、また輪廻するのです。

この神の世界というのは、今でいうなら、世俗の価値観における最高の場所ということになります。世の中の人たちが揃ってあこがれて、「ああ、あんなふうになりたいな」と望む世界です。もっと分かりやすく言えば、何兆円も資産のある大富豪といったイメージです。

普通に考えれば、この世で一番幸せな立場にいるのですが、しかしそれでも、老病死という絶対に逃れられない「生きる苦しみ」は、ついてまわります

いくら資産があっても、時が経てばなんの意味もなくなってしまうということを知りながら、それにしがみついて生きていくという、「幸福に囲まれた不幸」にいる暮らし。これが天です。

ですから天も苦しみます。そしてお釈迦様に助けを求めます。天がお釈迦様を敬い、その教えに耳を傾けるのは、こういう背景があるからなのです。



一方の魔ですが、実は魔というのは、天にいる神々の一人なのです。

魔も神ですから、特別な神通力を持っています。しかしその力を使って、お釈迦様が仏法を世に広めることを妨害し、人々を輪廻の世界に縛り付けておこうと願うところが、他の天とは違うところです。

これは現代風に言うなら、人々を世俗の価値観に閉じ込めておくことで、自己の権力欲や自己顕示欲を満たそうという、邪な思いを持った人に相当します。

お釈迦様の教えが広がると、人はそれまでとは全く違う価値観を持つようになりますから、ものごとの本質が見えてきます。そうすると、虚飾やごまかしで自分を偉くみせてきた人たちは、化けの皮がはがれてしまって、立場が悪くなる。

ですから何としてでも、皆を世俗の立場に縛り付けておいて、自分の立場を守ろうとする。皆が、この世の真理に目覚めると困ったことになる人たち、それが魔という存在の本質です。
 
天も魔も、古代インドの神話的世界の存在ですから、現実にそのような者がいるわけではありません。しかしそこに込められた「存在のあり方」は、現代社会の中にいくらでも見出すことができます。そこをしっかり見ていくことで、荒唐無稽に思える仏教世界からでも多くのことを学ぶことができるのです。



 
 

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