否定的な感情にどう向き合うべきか?

佐々木 閑
2022/1/9

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

嫉妬、嫌悪、自己否定のような、自分の思い通りにならない根深い感情に対して、私たちはどう対処すればよいのでしょう。

(ペンネーム「Y.O.」さんからの質問)


Answer :

そのような思いを「煩悩」と呼びますが、人はもともと誰もが煩悩まみれ。負い目を感じる必要はありません。しかし、煩悩に振り回されれば自他を苦しめることになります。「自分が煩悩まみれであると自覚し、煩悩を鎮めるために日々の地道な努力を積み重ねる」という生き方が、釈迦が説かれた道なのです。



仏教では、私たち生き物は、自然法則の中でたまたまこの世に現れてきた偶然の産物にすぎない、と考えます。キリスト教やイスラム教が言うように、創造主によって作られた特別立派な存在ではないのです。

もし私たちが一神教の神によって造られた被造物であるなら、父なる神と同じように私たちも清らかな心を持っているはずです。欲望も憎しみも愚かさもない、清らかさ100パーセントの完璧な存在として安楽に生きているはずなのです。

しかし実際は全く逆で、私たちは欲望に流され、憎しみに踊らされ、愚かさのせいで右往左往するばかりです。一神教の人たちの考えによれば、それは私たちが、神の思いを裏切って正しい道を歩もうとせず、非行の道に入ってしまったからです。

私たちの心に様々な悪い思いが浮かんでくるのは、私たち自身が間違った道に踏み込んだからであり、私たちの「悪さ」の責任は私たち自身にある。これが一神教世界での私たちの在り方です。



しかし仏教の考え方は全く違います。

私たちは誰かに造られた存在ではなく、ただの偶然の産物です。そして、その偶然の産物である私たちは、自然法則の結果として、否応なく、心の中に欲望や憎しみなどの良からぬ思いを持って生まれてきます。その良からぬ思いのことをまとめて煩悩というのですが、生き物というのは例外なく、煩悩を持って生まれてくるようにできているのです。

ですから、私たちが煩悩まみれで生きているという状態は、決して私たちの責任なのではなく、生き物としての本来の姿なのです。すべての生き物は、この世に生まれ出たその瞬間から、煩悩にあやつられながら生きるという生き方が定められているのです。

この世には、「煩悩まみれが本来の在り方なのだから、その生き方でいいじゃないか」と思う人も大勢いるし、その一方で、「煩悩にあやつられる生き方はつらい。なんとかそこから抜け出す道はないか」と考える人もいます。そして後者の考え方を追い求め、煩悩を断ち切る道を模索した先駆者が釈迦です。

ですから仏教では、人はもともと誰もが煩悩まみれであって、そのことを負い目に感じる必要はない、と言います。それが普通なのです。

しかしだからといって、それをそのまま放置しておくと、その煩悩が私たちの言動をあやつるようになり、間違った行いをするようになり、それが回り回って自分自身を苦しめることになるので、努力して煩悩を消さねばならないと説くのです。



ご質問にあるとおり、人は誰もが様々な悪い心を起こします。起こしてやろうと思わなくてもひとりでに起こってくる。それは人としてあたりまえのことです。

大切なのは、そうやって起こってくる煩悩も、自覚と努力を積み重ねることで次第に鎮めることができるという釈迦の教えを信頼すること。

今日努力して明日消える、などというインスタントな道はありませんが、「継続は力なり」、日々努力を続けることで、少しずつですが、煩悩は消えます。それはお釈迦様が自分の体験からおっしゃっていることです。

誰だって煩悩まみれはあたりまえ。それを努力によって少しずつ消していくのが仏教の道なのです。


page up