犬や猫のように生きたいと思うのは間違い?

佐々木 閑
2022/4/10

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

飼い猫を見ると、彼らには煩悩が無く、毎日充実した時間を過ごしているように見えます。仏教の悟りとは違うと思いますが、あのように生きたいと願うのは間違っていますか?

(ペンネーム「ふたば」さんからの質問)


Answer :

人間の煩悩の元凶は「私こそがこの世界の中心」と考える過大な自我意識。犬や猫には、このような煩悩は(ほとんど)ないと思われます。しかし、「犬や猫には煩悩がないから、私も犬や猫になりたい」と思うこと自体、自分にないものを欲しがる煩悩に他なりません。「人に生まれた私は、人としてできる限りの努力をして平安を目指そう」と考えることによって、初めて釈迦の教えが意味を持つのです。



「犬や猫に煩悩があるか」という質問に(犬や猫ではない)私が正しく答えることはできませんが、おおよその予想はできます。私たちが多くの煩悩を持っているのは誰でも分かることですが、その煩悩の元凶は「過大な自我意識」です。

この世には「私」というものが存在している。そしてその「私」こそがこの世の中心であり、「私」が望む欲求は必ず叶えられるべきであり、「私」の存在の邪魔をする者は敵であるから排除しなければならない。このように、すべてが「私」中心に組み立てられた世界。それが煩悩を生み出す大元なのです。



人は、その自我意識が極端に強い生物種です。そのために、欲望も憎しみも愚かさも他の動物たちよりはるかに強くなりました。

必要のないものまで欲しがり、ひとつ手に入れればもうひとつ欲しくなり、それが手に入るともっと欲しくなる。実際には敵でない者であっても疑心暗鬼でやっつけようとする。自分のものではないのに勝手に「私のものだ」と思い込んで手を出そうとする。私たちの愚かな行動の裏側には、いつもこの宿命的な自我意識が潜んでいるのです。

そんな私たち人間に比べて、犬や猫の自我意識はとても小さいように思えます。

餌をがつがつ食べたり、お互いに喧嘩したり、何も考えずにボーッとしていたり、ちょっと見るといかにも愚かしい姿で暮らしているように見えますが、よくよく考えると、彼らは私たち人間がするような「本当に愚かな行動」は決してしません。分をわきまえ、必要以上に争うことも貪ることもなく、日々安穏に暮らしています。そう思うと、人間の方がよほど愚かな生き物に見えてきます。

というわけで、犬や猫に煩悩があるかという質問に対しては、「私たちが自覚しているような煩悩はほとんどないでしょう」というのがお答えです。
 



そして、ここからが本題。

「犬や猫には煩悩は(ほとんど)ない」として、だから「私たちも犬や猫のようになりたい」と考えるのもまた、人間特有の煩悩です。

犬や猫は「便利な暮らしをしている人間になりたいなー」などとは考えないでしょう。自分にないものを見ると欲しくなって手に入れたいと考える。これもまた「自我」を中心にして生きている人間の宿命的愚かさです。

自分の分を知って生きるということは、今いる立場をそのまま受け入れ、その中で努力しながら生きていくということ。

「犬や猫には煩悩がないから、私も犬や猫のようになりたい」ではなく、「人に生まれた私は、人以外のものにはなれないのだから、人として、できる限りの努力をして平安を目指そう」と考える。そう考えて初めて、釈迦の教えが意味を持ってくるのです。



 

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