私たちがこの世に存在する理由とは?

佐々木 閑
2021/12/8

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

私たちがこの世に存在する理由は、仏教のどこに記されているのでしょうか。

(ペンネーム「T.T.」さんからの質問)


Answer :

仏教では、私たちが生きる理由や意味は特にないとしています。しかし、そのような人生の中で、生きる意味を自ら発見していくことによって、絶望することなく生きていくことができる、と説いたのが釈迦の教えなのです。

 

「私たちはなぜこの世に存在しているのか」という質問は、とても哲学的で奥深い感じがしますね。多分、多くの哲学者たちが、古来、この問題を深く考えてきたのでしょう。

ところで、この問いには2種類の違った意味が含まれています。

ひとつは「どういうことが原因で、私たちはこの世に存在しているのか」という意味に解釈する場合。もうひとつは「私たちがこの世に存在していることにはどのような意味があるのか」というふうに解釈する場合です。

全く違うことを訊いているのですが、どちらも「私たちはなぜこの世に存在しているのか」という言葉で表現することができますね。



前者の、「どういうことが原因で、私たちはこの世に存在しているのですか」という解釈でしたら、私たちがこの世に生まれてきた原因を訊いているのですから、たとえば「両親のDNAが混ざり合った結果として今の私ができている」とか、「ビッグバンで生まれた宇宙の進化の過程で生命というものが誕生し、その末端として私という有機体が生まれてきた」とか、あるいは「幸い、運に恵まれたおかげで、途中で病死も事故死もせずに生きてこられたので、私は今、この世にいるのです」など、いくらでも答は考えつきます。

要するに、今の私をここに存在させてくれている原因を挙げれば、どれもが正解ということです。このような意味での質問ならば、仏教にも決まった答はあります。

古代インドの仏教世界では、「どういうことが原因で、私たちはこの世に存在しているのですか」という問いに対する答は「業」です。自分が過去におこなった言動が業となり、その業のパワーが私の次の生まれを作り出していく。業があるので、私たちは永遠の輪廻を繰り返す。業こそが、私たちをこの世に存在させている根源的な原動力なのです。

そして仏教では、その業のパワーを断ち切って二度と生まれ変わらない状態、つまり涅槃に達することを目的とします。

言ってみれば、「私たちがこの世に存在している原因を断ちきって、この世に存在しない状態に安らぎを求める」参考「輪廻を信じなければ仏教は成立しない?」)のが仏教という宗教だということになります(「一番初めの業の原因はなんですか」という問いには答えません。私たちは無限の過去から存在しているからです)



これに対して2番目の解釈、「私たちがこの世に存在していることにはどのような意味があるのですか」という質問に対する答は、当然ですが全く違うものになります。

仏教からの答は、「私たちがこの世に存在していることには、なんの意味もありません」というものです。ドキッとするかもしれませんね。

世の中の潮流では、どんなものにでも意味付けをすることがはやりで、「人が生きることには深い意味がある」というのがお決まりのフレーズになっているようですが、釈迦の仏教にはそういう考えはありません。「私たちは過去の業のせいで、たまたまこの世に生み出されてきた、ただの有情(感情を持つ生きもの)であって、なにか深い意味を持って生まれてきたわけではありません。たまたまの偶然でここにいるだけです。生きていることには意味はありません」と言うのです。

以前、日本を代表する理論物理学者の大栗博司先生と共著で本を出したことがありますが、その本の帯のフレーズは「人生に生きる意味はない」というものでした。私と大栗先生の両方ともが、このフレーズがとても気に入ってつけました。仏教も、そして物理学も等しく、「人はこの世にたまたま生まれてくるものであって、そこに特別な意味はない」と考えるのです。

たとえばキリスト教やイスラム教のような一神教では、当然のこととして、人生には意味があると考えます。なぜなら私たちの人生は、神によって与えられたものであって、そこには神の意志が反映しているからです。つまり「私が生きていることには、『生きよ』という神の意志が現れている」と考えるのです。

しかし仏教には創造者はいませんし、私たちの生を外部からコントロールする者もいません。私たちは、この世の自然法則の中でたまたま人という生物種として生まれてきただけのものなのです。ですから釈迦の教えに従うなら、私たちがこの世に生まれてきたことには、意味はないのです。

ここからが重要です。

その、なんの意味もない人生を生きる私たちが、その意味のない人生を、絶望することなく生きていくにはどうしたらよいか、と問い続けたのが釈迦なのです。そしてその釈迦が、もともと意味のない人生を、意味のある人生へと転換するための方法として見つけ出したのが仏道です。

初めから誰かによって意味づけられた人生を生きるということは、その誰かの思惑に従って生きねばならないということです。仏教では、そんな外部の「誰か」などどこにもいないと考えますから、自分の人生の意味は、自分で作っていかねばならないと言うのです。

煩悩を消して涅槃を目指す。それこそが、釈迦が示した「生きる意味」です。釈迦の遺言「自灯明、法灯明」はまさにそのことを言っています。

人生に生きる意味はないが、人生の中で生きる意味を作っていくことはできる。これが、釈迦が説いた仏教の人生観なのです。


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