お釈迦様の教えに沿って生きるには?

佐々木 閑
2021/11/9

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

現代は自分の生きる道を自由に選べる時代ですが、そんな時代にいて、お釈迦さまの教えに沿って生きるために、私たちはどのような道を選ぶべきでしょうか?

(ペンネーム「葉菜」さんからの質問)


Answer :

常に広い視野で世界を見て、偏狭で自己中心的な生き方をやめる努力を続けることが大切です。自我の束縛をひとつずつ見つけ出し、ひとつずつ捨てていく。その連続が「正しく生きる」ということにつながります。

 
私は浄土真宗の寺の長男として生まれたものですから、小さい時から、寺の跡継ぎとして育てられました。家族も親戚も、周囲の檀家さんたちも皆がそろって私のことを、「いずれ寺を継いで住職になる人」という目で見ていました。

幼い頃はそんな境遇に疑問を持つこともなく、「このお寺で一生を過ごすんだなあ」と納得していました。ところが高校、大学と進むにつれ、その自分の境遇を、もっと広い視点で眺めることができるようになり、それとともに様々な疑問が湧き起こってくるようになりました。



一番のショックは、自分の寺が差別寺院だと知った時です。

もう今ではほとんど残っていないのですが、私の寺は昔からの特殊な形態を残していて、2か寺がワンセットで法事をするようになっています。私の寺が上寺で、隣に立っている別のお寺が下寺という上下構造になっていて、どんな法事の時も二人がセットで動きます。

しかも厳格な上下関係があり、下寺の住職は上寺の住職(つまり私の祖父や父)の一切の世話をしなければなりません。荷物持ちから衣の着付け、内陣の掃除、車の運転などあらゆる雑務は下寺の住職の仕事です。檀家さんはお布施を2か寺分用意するのですが、もちろん上寺の方が多くなっています。

このような関係が、それぞれの寺の血筋によって決まっているのですから、どうみてもカースト制度です。自分が知らぬ間にカースト制度の中に組み込まれ、しかも差別する加害者側にいながら育てられてきたと理解した時は眠れませんでした。そして「この寺は継がない」と心に決めました。

おそらくこんな恐ろしい制度もこれで終わります。昔だったら、いくら私が「継ぎません」と言っても周りが自由にはさせてくれなかったでしょう。今のような、自由に生きる道を選ぶことのできる時代に生まれたことを、私は心の底から感謝しています。そのおかげで社会的犯罪者にならずに済んだのです。



さて、それでご質問ですが、私がどうして「この寺は継がない」と心に決めたかというと、それまでの狭い、井の中の蛙のような視点から抜け出して、より広い視野でものを見ることができるようになったからです。

世界が狭いということは、周りを自分に都合の良いもの、都合の良い考え方だけで囲って、その外にある、自分にとって都合の悪いものを見ないということ。つまり自己中心の世界で生きているということです。

しかし一旦そこから抜け出して、外の世界にまで目が行くようになると、今の自分の在り方がいかに偏狭で、自己中心的で、愚かしいものであるかを思い知らされます。

この「思い知らされる」という点が重要なのであって、それが私たちのねじ曲がった心を矯正し、自我の縛りから解放してくれます。

ですから、「私たちはどのような道を選ぶべきでしょうか」というご質問に対しては、「いつでも、自分にとって都合の良い考え方から離れるように心がけ、高くて視野の開けたところから世界を見るよう努力し続けるという生き方をしましょう」とお答えします。



差別寺院の呪縛から逃れることができた私ですが、だからといって今の私が十分に開けた視野で生きているわけではありません。今の私にも、自分では気がつかない自我の縛りがいたるところにこびりついているはずです。

それをひとつずつ見つけ出し、ひとつずつ捨てていく。その連続が「正しく生きる」ということの意味でしょう。ですから私も、毎日、正しい道を探しながら生きています。道半ばですが、その一歩一歩が生きる楽しさにもなっているのです。


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