漢詩徒然草(18)「稽古」

平兮 明鏡
2022/10/1

泛英菊酒擣衣夜 泛英の菊酒 擣衣の夜
折柳俚歌飛絮春 折柳の俚歌 飛絮の春
千古風情雖已斷 千古の風情 已に断ゆると雖も
今人詩思屬今人 今人の詩思は今人に属す

泛英 … 英《はな》を泛《うか》べる
菊酒 … 菊の花をうかべた酒
擣衣 … 衣《ころも》を擣《う》つ
折柳 … 柳の枝を折る。また、送別の意
俚歌 … 流行り歌
飛絮 … 飛ぶ柳の綿(柳絮)。絮《じょ》は綿の意
風情 … 自然や詩文などの味わいや趣
詩思 … うたごころ。詩にしたいという思い


詩題の「稽古」は、現代の日本では、武道や芸道を習うことを言いますが、本来は「古《いにしえ》を稽《かんが》う」と読み下すことができ、昔の事を学び、これからのあり方を知る、という意味です。

起承句は、漢詩になじみがないとまったく意味がわからないと思いますが、それがまさに今回のテーマ「稽古」に思い至ったところです。

現代で古典をするという問題点

漢詩は古典ですので、平仄や韻など「漢詩としてのルール」はもとより、「使われる言葉」も古典に則っていなければなりません。これは日本の古典である短歌を作るには、昔の日本語の文法や語彙、旧仮名遣いからまず学ばなければならないというのと同じ事情です。

さらに、仮にそれらのことを理解していたとしても、

「この場面は何のことを言っているんだろう?」
「この◯◯って一体何?」


と思うことも少なくありません。

これは、古典の作品を読むときには、その時代や地域の文化がわかっていないと意味がわからない、という問題があるからです。単に辞書を引けばわかることならよいのですが、本当にその詩を理解するには、当時の時代背景や作者の置かれた状況を知っていなければならないことも多いのです。

これは、現代の作品であっても、あるいは他のジャンルの文学・芸術であっても、作者との共通認識がない、という事態に陥った場合、常に同じ問題が付き纏《まと》います。

泛英菊酒擣衣夜 泛英の菊酒 擣衣の夜
折柳俚歌飛絮春 折柳の俚歌 飛絮の春

起承句は、まさにそのような語句の羅列になっています。つまり、意図的にあえてそのような語を配置したわけですが、とりあえずは意味がわからないと話が進みませんので、簡単にですが、まずは一つずつ説明していきましょう。


「重陽」

9月9日の節句を重陽《ちょうよう》と言います。季節の節目を節句と言い、1月7日の人日《じんじつ》、3月3日の上巳《じょうし》、5月5日の端午《たんご》、7月7日の七夕《しちせき》の5つがありますが、現代の日本では人日と重陽は、あまり知られなくなってしまいました。

昔の中国では、陽数(奇数)が縁起がよい数と考えられていて、その中でも最大の数である「9」が重なる重陽は、節句の中でも特におめでたい日とされていました。

長寿を祈って、薬効をもつ菊の花をうかべた「菊酒」を飲んだり、また、災いを避けるとされた茱萸《しゅゆ》(ハジカミ)を身に付け、丘などの高い場所に登って酒盛りをしたりしていました。昔は盛大にお祝いされていて、詩の中でもよく見かける情景です。

ちなみに令和4年の重陽、つまり陰暦の9月9日は、10月4日になります。ひな祭りや子供の日は新暦でやっていますが、季節のズレがありますので、本来は陰暦ですべきものです。

「擣衣」

着物や布を打つ、という意味ですが、今の人にはパッとしないかもしれません。昔は砧《きぬた》という台の上で、洗濯した布を棒で叩いてしなやかにしていました。擣衣はどの家庭でもやっていたことで、夜になると家々からその音が聞こえてきたそうです。この語は、

長安一片月 長安 一片の月
萬戸擣衣声 万戸《ばんこ》 衣《ころも》を擣《う》つの声

という、李白の「子夜呉歌《しやごか》」という詩で特に有名です。この詩の舞台は長安の都。冬支度のために、あらゆる家で砧を打っているという秋の夜の情景ですが、現代ではもはやその音は想像することしかできません。

「折柳」

折柳については、以前に漢詩講座でも触れています。大昔の長安の都では、旅立つ人を見送るときに、郊外の覇橋《はきょう》というところまで行って、そこで柳の枝を折って餞《はなむけ》とする風習がありました。

また、それを題材にした当時の曲を指すこともあります。民謡などを取り扱ったそれらの楽曲は、楽府《がふ》と呼ばれ大いに流行しましたが、現代では楽曲そのものが失われてしまい、聴くことはできません。つまり、歌詞のみが残っている状況です。

「柳絮」

柳の綿《わた》のことです。柳は春に花を付けたあと、綿に包まれた種子が風に吹かれて飛ばされます。その乱れ飛ぶようすは、さながら雪が降る光景に似て、漢詩ではそれを春に降る雪と喩《たと》えるのが一つの定番になりました。しかし、日本の柳の綿はほとんど飛ぶことがありませんので、私たちはその光景を見たことはありません。


簡単にですが、起承句の語句をすべて説明してみました。単に言葉の意味がわかっても「その語がどんな風情を持っているのか?」を知らないと、その内容を読み解くことができないということがわかったのではないでしょうか?

ここに挙げたものは、まさに漢詩の風物詩といったものですが、さて、ここで困ったことになりました。

解説でも述べたとおり、「重陽」にしても「擣衣」にしても、これらの風習は絶えて久しいものになってしまっていて、見たことも聞いたこともないのです。「柳絮」もそのような場所に住んでいないのなら想像するしかありません。

漢詩は古典の文学です。そして、詩とは作者の感動を詠んだものです。つまり、大切なことは、その詩は作者の感動を含んでいて、さらにはそれが読んだ人の心にどう響いたか、ということです。

現在では絶えてしまって、もはや想像することしかできないとしても、それでも、そんな千年以上も前の人の感動を知ることができるなんて素晴らしいことだと思いませんか?これこそが古典の醍醐味です。

今回の私の詩も、経験したことのない情景を想像して、それでも「そんなもの見たことも聴いたこともない!」と思って作った詩です。逆説的ですが、そこには私の「失われた風物への憧憬」という感動が詰まっているはずです。

千古風情雖已斷 千古の風情 已に断ゆると雖も
今人詩思屬今人 今人の詩思は今人に属す

古典を読まなければ、古典の感動を知ることはできません。現代の風習からかけ離れたものであるからといって、見るべきものがないなどということは全くの誤りです。むしろ、古典で扱っているような大昔のものは、洗練されたものが篩《ふるい》にかけられて残っているというのもまた事実です。

これは、実は大昔のものでなくても言えることです。古《いにしえ》について学ぶ(=稽《かんが》う)ことができたのなら、それは10年前でも、1年前でも、1日前でも、数時間前の事柄でも、それはもう「稽古」となるのです。そしてその時、それはあなたの心に新しい感動を与えてくれていることでしょう。まさに「昔の事を学び、これからのあり方を知る」というわけです。


●◯●●●◯●
泛英菊酒擣衣夜 泛英の菊酒 擣衣の夜
●●●◯◯●◎
折柳俚歌飛絮春 折柳の俚歌 飛絮の春
◯●◯◯◯●●
千古風情雖已斷 千古の風情 已に断ゆると雖も
◯◯○●●○◎
今人詩思屬今人 今人の詩思は今人に属す

平起式、起句は対句で踏み落とし「春」「人」上平声・十一真の押韻です。

最後に本文中で取り上げた「重陽」「擣衣」「折柳」「柳絮」について、古人が詠んだ名詩を紹介します。その失われた情景がはたして見えてくるでしょうか?
 

「重陽」

「九月九日憶山東兄弟(九月九日山東の兄弟《けいてい》を憶う)」王維
 

獨在異鄕爲異客 独り異郷に在りて 異客《いかく》と為り
毎逢佳節倍思親 佳節に逢う毎に 倍《ます》ます親《しん》を思う
遙知兄弟登高處 遥かに知る 兄弟 高きに登る処
遍插茱萸少一人 遍《あまね》く茱萸《しゅゆ》を挿して一人《いちにん》を少《か》くを

私は一人、異郷の地で旅人となり、
節句の日には、ますます親兄弟のことが恋しくなる。
(今日は重陽なので)きっと故郷の兄弟たちは高台に登って、
茱萸を身に付けているだろう。ただ私一人を欠いた中で……。
 

「擣衣」

「子夜呉歌《しやごか》」李白
 

長安一片月 長安 一片の月
萬戸擣衣聲 万戸《ばんこ》 衣《ころも》を擣《う》つの声
秋風吹不盡 秋風 吹いて尽きず
總是玉關情 総て是《これ》 玉関の情《じょう》
何日平胡虜 何《いず》れの日にか 胡虜《こりょ》を平らげ
良人罷遠征 良人《りょうじん》 遠征を罷《や》めん

長安の都を照らす月一つ。
家々からは衣を打つ音が聞こえてくる。
また、秋風は絶えず吹きつけてきて、
これらはすべて、玉門関の城塞にいる夫への思いをかき立てる。
一体いつになるのだろうか。辺境の地を征服して、
夫が遠征を終えて帰って来るのは。
 

「折柳」

「春夜洛城聞笛(春夜洛城に笛を聞く)」李白
 

誰家玉笛暗飛声 誰《た》が家の玉笛ぞ 暗《あん》に声を飛ばす
散入春風滿洛城 散じて春風に入りて 洛城に満つ
此夜曲中聞折柳 此の夜《よ》 曲中 折柳《せつりゅう》を聞く
何人不起故園情 何人《なんぴと》か故園の情を起こさざらん

誰の家の笛の音だろうか。どこからともなく聞こえてくる。
(その音は)春風に乗っての洛陽中に響きわたる。
この夜、流れる曲は「折楊柳」。
誰が故郷を思わずにいられようか。
 

「柳絮」

「楊柳枝詞」劉禹錫
 

煬帝行宮汴水濱 煬帝《ようだい》の行宮《あんぐう》 汴水《べんすい》の浜《ほとり》
數枝楊柳不勝春 数枝の楊柳 春に勝えず
晩來風起花如雪 晩来 風起りて 花 雪の如し
飛入宮牆不見人 宮牆《きゅうしょう》に飛び入りて 人を見ず

煬帝の離宮があった汴水の岸辺では、
今でも数本の柳が春の風情に耐えられないようすだ。
夕暮れどきになって風が起こると、柳絮は雪のように舞い散るが、
宮殿の中に乱れ飛んでも、もはやそれを見る者はいない。


←漢詩徒然草(17)「狂花」へ | 漢詩徒然草(19)「飛行機」へ→

page up