漢詩徒然草(19)「飛行機」
雲外船舷似夢不 雲外の船舷 夢に似たるや不や
乾坤無別暮煙悠 乾坤 別無く 暮煙悠かなり
詩仙不識是仙境 詩仙も識らず 是の仙境
唯見大瀛天際流 唯だ見る 大瀛の天際に流るるを
雲外 … 雲の向こう側。雲のかなた
船舷 … 船べり
乾坤 … 天と地。易で用いられる陰陽の卦(図象)による
暮煙 … 夕暮れのもや
詩仙 … 李白のこと
仙境 … 仙人の住む場所
大瀛 … 大海
天際 … 空の果て
前回は、昔の名詩に登場する風情が、もはや現代では失われていてその光景を想像することしかできない、というお話でした。今回のテーマは、それとは真逆のパターンです。今回も盛唐の詩人・李白に登場してもらいます。
詩題の「飛行機」ですが、中国語では「飛機」といいます。漢詩の詩題は本来は、漢語や中国語を用いるべきですが、ここはタイトルなので、わかりやすく日本語を用いています。
飛行機の歴史は、アメリカのライト兄弟が、1903年に初飛行に成功したことに始まります。その後、50年も経たないうちに、旅客機が大型化・一般化して、大勢の人が世界中を旅できるようになりました。
飛行機の窓からは、人々が住む街や、一生行くことがないであろう山嶺や大洋が一望でき、果ては雲の上からその雲海を見下ろすことさえできます。100年以前の人々にとっては、まさに夢のような光景でしょう。現代に生きる私たちも、はじめて飛行機に乗ったときの緊張感や不安感、そして窓からの光景を見たときの感動は忘れられないのではないでしょうか。
雲外船舷似夢不 雲外の船舷 夢に似たるや不や
乾坤無別暮煙悠 乾坤 別無く 暮煙悠かなり
ある夕暮れどき、機中で窓を見やると、眼下には一面の大海原が広がり、遥かにはその水天の境界線に夕霞がかかっていました。そこは、朱色の光に包まれた天と地の区別のない虚空の中央です。
詩仙不識是仙境 詩仙も識らず 是の仙境
詩仙とは、李白のことで、仙人のような詩風や志向を持っていたため、そのように呼ばれています。仙人は高い山の上など、俗世間を離れた清浄な地、仙境に住むとされていますが、詩仙と呼ばれた李白もさすがにこの雲外の光景は想像できなかったでしょう。
唯見大瀛天際流 唯だ見る 大瀛の天際に流るるを
それは絶景というよりも、ただただこの世ならざる光景です。そんなことを思いながら、そのばやけた空の彼方に流れ出《いで》る水際を眺めるのでした。
この句は、李白の「黃鶴樓送孟浩然之廣陵(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之《ゆ》くを送る)」の結句、
惟見長江天際流 惟だ見る 長江の天際に流るるを
をもとにしています。李白に対して当てつけがましいかもしれませんが、「長江」と「大瀛」の対比に今回の詩情を言い表しているつもりです。
しかし、こんな幻想的な光景を目にしながら、李白の詩を連想するとは、結局は私も詩仙に魅了されているのでしょう。1300年前の詩人と現代科学の奇跡、これらが共存できるのも詩情の力の一つです。
前回、お話ししたように、古今それぞれの詩情は、それぞれに属するものなのかもしれません。ただ、一つ違いがあるとすれば、それは、私たちは現代でも李白の詩を読むことができますが、李白は以降の時代の詩を読むことができないということでしょうか。もっとも李白がそれを望むかどうかは誰にもわかりませんが。
○●○○●●◎
雲外船舷似夢不 雲外の船舷 夢に似たるや不や
○○○●●○◎
乾坤無別暮煙悠 乾坤 別無く 暮煙悠かなり
○○●●●○●
詩仙不識是仙境 詩仙も識らず 是の仙境
○●●○○●◎
唯見大瀛天際流 唯だ見る 大瀛の天際に流るるを
仄起式、「不」「悠」「流」下平声十一尤の押韻です。
起句と転句の「不」は意味も平仄も違うので要注意です。ここは同字重出を許容しています。
「黃鶴樓送孟浩然之廣陵」
(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之《ゆ》くを送る)
故人西辭黃鶴樓 故人 西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月下揚州 煙花 三月 揚州《ようしゅう》に下《くだ》る
孤帆遠影碧空盡 孤帆の遠影 碧空に尽き
惟見長江天際流 惟《た》だ見る 長江の天際に流るるを
黃鶴樓 … 湖北省武漢市、長江沿岸にあった楼閣
廣陵 … 下記、揚州
故人 … 昔からのなじみの人、旧友
煙花 … 春がすみのかかった花々
揚州 … 昔の中国の地方名、都市名。風光明媚であった
孤帆 … 一艘の帆かけ舟
旧友が西にあるこの黄鶴楼に別れを告げ、
春がすみのかかった花咲く三月、揚州へと下ってゆく。
一艘の帆かけ舟の遠い影は、青空の彼方へと消えてゆき、
ただ長江が空の果てに流れていくのが見えるばかりだ。
←漢詩徒然草(18)「稽古」へ | 漢詩徒然草(20)「客路」へ→