非風非幡~厄介者の風と心地よい風

木下 紹胤
2022/7/15

風に旗がはためいています。さて、この時、動いているのは風でしょうか?それとも旗でしょうか?

「非風非幡(風に非ず、幡《はた》に非ず)」というこのお話は、禅宗六祖・慧能禅師の語録『六祖壇経』によります。

慧能禅師が、広東省広州を旅していたころ、法性寺というお寺で説法が行われていました。当時は、説法の日には旗を立てる習慣があり、その風になびいている旗を見て、ある僧がこのように言います。

「あれは旗が動いているのだ」

すると、ある僧が反論して言います。

「いや、あれは風が動いているのだ」

ちょうどそれを聞いた慧能禅師は、このように言いました。

「旗が動いたり、風が動いたりするのではない。人の心が自ずから動いているのだ」と。

これはどういうことでしょうか?旗は旗、風は風であって、その動きに見ている私たちの心が関わっているとは思えません。しかし、これこそが私たちの目に見えるあらゆるものの正体なのです。


ある夏の日のこと、法事でお墓参りをしていた時に、このようなことがありました。

その日は最高気温31度と、お日様がジリジリと照りつける暑い日でした。お経の前の準備の時に、一人のご婦人が、困った顔をしながら、「和尚さん、ちょっと手伝ってくれる?」と、私に声をかけてきました。「どうしました?」と聞くと、ロウソクになかなか火が点かない、ということでした。

お墓は野外ですから、火をつけようとしても、風が吹くと、すぐ消えてしまいます。足下を見ると、マッチの芯の燃えガラがいっぱい落ちていました。そこで私は、両手で風よけをしてロウソクが消えないようにして、線香に火をつけてあげました。

準備が整ったので「お経を始めていいですか?」と言って、お経を読み始めました。お墓での読経《どきょう》というと、3分くらいですが、それでもじっと立ちっぱなしですから、じりじりと暑さを感じるものがあります。すると、そこに一陣の風がフッと吹いてきました。そうして、お経が終わった後、そのご婦人が一言、「風が気持ちいいねぇ」とニッコリと微笑みながら言われました。

ロウソクに火をつけている時は、風が吹くことに困っていたわけですが、そのご婦人はもうそんなことも忘れて、「風が気持ちいい」と感じていたのです。一方、私はというと、お墓での読経中、ゆらゆらと揺れるロウソクを見ながら、「あー消える消える」と、そのことに心がとらわれてお経に集中できていませんでした。ましてや風の心地よさには気付きさえしなかったのです。

なぜそうなってしまったかというと、それは私が風を厄介者だと決めつけて、「風は吹くな吹くな」と、心が凝り固まってしまっていたからです。つまり、風には良い風も、悪い風もなく、私たちがその風をどう捉えるか?が問題なのです。

これが慧能禅師の言う「旗が動いたり、風が動いたりするのではない。人の心が自ずから動いているのだ」ということです。ここでも揺らめいてたものは、ロウソクの炎でも風でもなく、私たちの心だったのです。


19世紀イギリスの詩人クリスティーナ・ロセッティは、「風」という詩の中で、
 

誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木《こ》の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく

と詠っています。

ここで詩人の言う、風がふるわせているものとは、やはり「木の葉」ではなく「私たちの心」です。風がその時々で感じ方が変わるように、私たちの心もその本質は常に留まることなく、現在進行形であって新鮮なはずです。私たちの心がそのもののありのままを感じて感動したとき、その風ははじめて光輝く風となるのです。

私たちは、今この瞬間でさえも、天地一杯の心地よい風に吹かれています。ということは、あとはそのことに気付くことができるか、できないかだけの話です。

とかく私たちは、自分に都合の悪いことが起きると、そのもの、ありのままの姿を見ようとしないで、ある一部分しか見えなくなってしまいます。

吹いてくるのは「厄介者の風」か?「心地よい風」か?

自分の都合や思い込みを離れることができたとき、私たちの心は、本当の感動と自由を得ることができるでしょう。

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