心に蓋を?~いつも心に思いをこめて
信州の松本平から望む常念岳《じょうねんだけ》。北アルプスの連なる山々の中でも三角の形をした稜線は一際目立ち存在感がある山です。日本百名山にも選定されており、わたしがもっとも親しみを覚える山がこの常念岳です。
「常念岳に朝日が当たればその日は晴れる」という古い言い伝えもあり、昔から地元の人たちに慕われている山です。しかし、慕われる理由は山容の秀麗さだけではないと思います。
常に念じる、あるいは、常に念《おも》うと書いて常念岳。「常念」という名前にも魅力を感じずにはいられません。
この山名の由来は、山の麓に暮らしていた常念坊という修験者の名前が由来しているという説や、山から絶えず念仏が聞こえてきたからといった様々な説が語り継がれています。そういった言い伝えもありますが、わたしは今一度、私たちがこうして望んでいる山の「常念」という意味について改めて考えてみたいと思ったのです。
「念」という漢字の成り立ちを調べてみますと、
「心は心臓の形。今は中のものを閉じこめる蓋で、心中に深く思うことを念という」
(『字統』白川静)
とあります。心に蓋をしておく、つまり心に深く留めておくことが「念」なのです。「心に蓋をする」と聞くと閉じ込めているように聞こえますが、決してそんなことはありません。思いがあっちこっちへ行ってしまわないように大切にしまっているのです。
わたしがいつも法事の時にお唱えしている「延命十句観音経」というお経のなかに、この「念」という字が出てくる箇所があります。
「念念従心起 念念不離心」
「念念、心より起こり 念念、心を離れず」と読み下すことができます。
「従心起」とは、心より思うことです。
わたしはこのお経を読みながら自問自答しています。法事のときには手を合わせたり、お焼香をしたりします。しかし、このとき、ちゃんと心をこめて手を合わせているか?形や作法などばかり気になって、本当に亡くなった方のことを思っているか?
「不離心」とは心を離れず思うことです。
一般的に先祖供養は法事という機会のなかで行うことになっています。しかし、実は法事のときだけ心をこめてお参りすればよいということではありません。ここでもまた、改めて自分自身に問い直します。法事でないときでも、いつも心から離れることなくご供養ができているだろうか?
つまり「念」とは、それを行うとき、形だけのものとせずに心からそのことを思い、また、そのときだけでなく片時も心から離れないようにすることなのです。
法事を例にしましたが、思う相手とは決して亡くなった方のことばかりではありません。両親や子ども、孫といった家族だけでなく、友人やペット、または仕事だという方もいらっしゃるかもしれません。すべてのものごとに「従起心」と「不離心」の思いを持つ。これが「念」という字の持つ「心に蓋をする」という本当の意味なのです。
わたしが毎年お盆とお彼岸、お正月には必ずお参りするお宅があります。おばあちゃんと呼ぶには憚れるほどお若く、明るくて慎ましやかな印象の方なのですが、いつ行ってもお庭はきれいに掃き清められていて、それはおばあちゃんの人柄そのものを表しているかのように思っていました。
ある時、ふと玄関先に揃えられ、きれいに磨かれた紳士靴に目が留まりました。「お客さまですか?」と尋ねると、実はその靴は10年以上も前に亡くなった夫の靴なのだと教えてもらいました。亡くなってからもずっと玄関先に、靴を履いていけるようにそろえてあるのだというのです。
先日、このおばあちゃんが亡くなりました。家族におばあちゃんの日常を伺っていると、ああそうだったのかと驚くとともに妙に納得することがありました。
毎朝、日の出前に起き、身支度を整え、朝日を出迎え、そして庭をきれいに掃き、夫の靴を磨くのがおばあちゃんの一日の始まりなのだと教えてもらいました。今でも1日1日を暮らすおばあちゃんの姿が目に浮かびます。
おじいちゃんのことを念《おも》い、おじいちゃんと過ごした日々を念い、毎日心をこめて庭をきれいにし、靴を磨く。決して誰にでもできるわけではありません。いつも心の中にその思いを大切にしまいながら、一日一日を暮らすおばあちゃん。わたしはおばあちゃんから「常念」という生き方を教わりました。
畑仕事に汗を流していても、一息つけば常念岳が目に入る。会社からの帰り道、夕焼けに染まる常念岳が目に飛び込んでくる。忙しいとき、苦しいとき、山を見る余裕なんてないという人もいると思います。しかし、どんな時も常念岳は変わることはありません。
「常に念う」と書いて常念岳。「常念」とは「私たちのあるべき普段の生き方」を表しているのだと思います。その佇まいにはいつも教えてもらってばかりです。