漢詩徒然草(12)「鏡」

平兮 明鏡
2022/4/1

白髮昏昏謄白髮 白髪は昏々として 白髪を謄し
紅粧爛爛寫紅粧 紅粧は爛々として 紅粧を写す
莫言只有影相映 言う莫れ 只 影の相映す有るのみと
看者胸中在厥光 看る者の胸中は厥の光に在り

昏昏 … 暗いさま
紅粧 … 美しい化粧
爛爛 … 明るく輝くさま


あなたは鏡を見るとき、自分の姿はどのように見えていますか?

白髮昏昏謄白髮 白髪は昏々として 白髪を謄し
紅粧爛爛寫紅粧 紅粧は爛々として 紅粧を写す

その鏡面に映った白髪や、ほんのり紅を帯びた頬を見つめるとき、ほの暗く見えたり、あるいは逆に輝いて見えたりするかもしれません。鏡は、その映す対象を「そのまま」に映すものですが、では、その映っている像は、はたして本当に「そのままの姿」なのでしょうか?

鏡と同じぐらい現実そのものを写している、と思われているものに写真があります。なんせ「真を写す」というぐらいですから、そう思うのも無理はありません。

それでは、そもそも「どうやってものが見えるのか」ご存知ですか?

それは「光の反射」です。ものに光が当たると、それは光を反射します。その反射した光が、私たちの眼球に飛び込んできて、網膜に「その像」を映し出します。その像が赤く見えているなら、その物質が赤い光を反射している、ということです。

カメラも人間の目と同じことで、レンズで光を取り込み、フィルムに「像」を写し取ります。しかし、この時点ですでに「そのもの、そのままの姿」を映しているわけではありません。当然ですが、レンズやフィルムの種類、露出(明るさ)の補正、そして、どうピントを合わせるかなどの撮影者の意図で対象の見え方が変わってきます。

 

Photo by H.Kameyama


デジタルカメラも基本的に違いはありませんが、デジタルカメラではフィルムの代わりに撮像素子(CCDやCMOS)を用いて、光を電気信号に変換します。その生《なま》のデータ(RAWデータ)は、単に光の強さの情報なので、映像として見るためには、加工して画像ファイルに変換しなければなりません。

実は、これと同じことが人間の脳の中でも起きています。先ほど、

その対象が反射した光が、私たちの眼球に飛び込んできて、網膜に「像」を映し出します。

と、言いましたが、ものが見えるということは、実はそれほど単純ではありません。受け取った「像」の光の信号は、視神経を通して脳に伝達される過程で、撮影素子が受け取った情報が「画像」に変換されるように、加工されてしまっているのです。

例えば、林檎はいつでもどこでも赤く見えるように補正されます。天気の日は明るく、曇りの日は暗いのですから、ものの見え方は、天候や時刻によって当然違います。デジタルカメラのRAWデータの中には、その光量の違いがちゃんと残っていますが、映像として出力されたときには、すでにホワイトバランスによって、明るく見えるように調整されてしまっているのです。

同じように、人間の目で見ると、林檎は脳の加工処理によって、自動的にいつでも赤く見えるように調整されます。その方が林檎を認識する上で都合がいいからです。

私たちは、網膜に写っている映像をそのまま見ていると思い込んでいますが、実はそれとは違う映像を見ているのです。色は脳の中で作られていて、今見えている像は脳が作り出したものなのです。


さて、長々と脳生理学的な話をしてしまいましたが、ここからさらに「心」というフィルターを通します。

宵の明星を見て、
ある人は「あまりに美しいので名前を知りたい」と言い、
ある人は「とても明るく恐ろしい光がずっと追いかけてくる」と言いました。

私たちは、同じものを見ていたとしても、実は違った姿を見ています。それぞれが、心で調整した「自分の見たいもの」を見ているからです。心を通して見ている以上、誰が見ても同じ絶対的な固定化された姿などは存在しません。

あなたが今、見ている鏡に映っている人は、一体誰なのでしょうか?

莫言只有影相映 言う莫れ 只 影の相映す有るのみと
看者胸中在厥光 看る者の胸中は厥の光に在り

反射する光の正体は「心」です。鏡は「像」を映すと同時に、見ているものの「心」を映しているのです。白髪がほの暗く見えるのも、紅を帯びた頬が輝いて見えるのも、自分の心がそう描き出したからです。

そう考えると、見ている世界そのものが自分自身の心の中を映し出す鏡ということになります。それが自己の本心を映しているのであれば、むしろその姿こそが「そのもの、そのままの姿」と言えるのではないでしょうか?

「心という名の色調補正」

なぜ「そう」見えているのか?それに気付いたとき、もしかすると今まで見えなかった自身の心そのものが、見えてくるのかもしれません。


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白髮昏昏謄白髮 白髪は昏々として 白髪を謄し
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紅粧爛爛寫紅粧 紅粧は爛々として 紅粧を写す
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莫言只有影相映 言う莫れ 只 影の相映す有るのみと
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看者胸中在厥光 看る者の胸中は厥の光に在り

仄起式、起句踏み落とし、「粧」「光」下平声・七陽の押韻です。

起承句は対句です。「白髮」「紅粧」は色や顔に関する対の語、「昏昏」「爛爛」は明るさに関する対の語になっています。そして、その正体が結句で語られます。起承で現象を描写し、転結でその理由を述べる、という構成です。

今回、意図的に一詩の中に「白髮」「紅粧」を二回ずつ、「うつす」という意味の「謄」「寫」「映」、「ひかり」という意味の「影」「光」を配置しています。これは対比と強調を用いて、鏡の正体を明らかにするためのレトリックですが、このように同じような語を用いるときには注意が必要です。冗長性を廃し、詩の中でその語がしっかりと活きるようにしましょう。

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