漢詩徒然草(11)「櫻花」

平兮 明鏡
2022/3/15

櫻雲繚亂路 桜雲 繚乱の路
緩步醉韶華 緩歩して 韶華に酔う
忽起回風下 忽ち起こる 回風の下
茫然見落花 茫然として 落花を見る

繚亂 … 咲き乱れるさま
緩步 … ゆっくり歩くこと
韶華 … 春の景色、春の光
回風 … つむじ風



三月に入り、いよいよ春となりました。春といえば、草木が芽吹き花を咲かせる季節です。「麗春」という言葉があるように、この初春の時期ほど、瑞々しさや麗らかさをイメージする季節はないと思います。

春風駘蕩、まさにそんな言葉にピッタリな暖かな陽光のさす春の日の遊歩道。気が付くと、そこは桜並木でした。雲のように満開の桜の樹々が連なります。桜花爛漫、今さらそんな言葉を思い出したかのような陶然とした感覚に陥ります。それは桜の持つ魔力だったのかもしれません。天に花咲く風光です。

櫻雲繚亂路 桜雲 繚乱の路
緩步醉韶華 緩歩して 韶華に酔う

「春たけなわ」とは、本当によく言ったものです。「たけなわ」とは、季節などが真っ盛りであることをいいますが、漢字では「酣、闌」と書きます。「酣」の方は「酉:とりへん(酒に関する部首)」を見ればわかるとおり、酒宴が最も盛り上がったときのことなのです。

普通は酒に酔うものですが、花に酔うというのも、まさに春の靉靆《あいたい》とした趣きをよく表していると思います。春の暖かな日差しの中、桜の香気に中《あ》てられて、私も「たけなわ」となっていたのかもしれません。

しかし、この物語はそこで終わりではありませんでした。そんな夢見心地で桜に見蕩れていた私のもとに、一陣のつむじ風が吹き込んできたのです。

忽起回風下 忽ち起こる 回風の下

目の前を幾百、幾千の花びらが舞い上がります。それは今までの酔いをすべて霧散させるかのような突然の出来事でした。そのときの私は、静の世界から動の世界へ、夢の世界から現実の世界へと回帰を果たしたかのような不思議な感覚にとらわれたのです。

桜の花びらが散ることなど、春の終わりでなくても当たり前のことです。咲き始めから盛りの時期であれば、散った花びらの数も些細なものでしょう。桜の花が散った、ただそれだけのことでした。何ら嘆くこともないのですが、しかし、そのときの私はなぜか酔いから醒めたような心境だったのです。

それは、その舞い落ちる花びらの中に「終わり」を見たからです。あれだけ私を陶酔させていた美しさが、その美しさそのものの中に「終わり」を内包している。その感覚は、私を現実に引き戻すのに十分でした。そのことに気付いた私は、ただただ茫然と落ちてゆく花びらを見ることしかできなかったのです。

茫然見落花 茫然として 落花を見る

人は「始まり」と「終わり」は別のもの、あるいは「始まり」があって、それが時を経て「終わり」に到達すると思いがちです。しかし、本当は「始まり」の中にすでに「終わり」を含んでいるのかもしれません。「生まれるのは偶然だが、死ぬのは必然である」という言葉があります。

しかし、舞い落ちた紅い花びらを見ていると、逆もまた真なのでないかと思えてきました。つまり、「始まり」の中に「終わり」があるのなら、「終わり」の中にも「始まり」がある、ということです。

「終わり」があったということは、必ずその「始まり」と、その間を繋ぐ時間があったはずです。その地に落ちた花びらは、間違いなく一瞬前まではその美しさで私を酔わせていたのです。その美しさも、私を陶然とさせていた事実も、依然として私の心の中に残っています。

先程の言葉を借りるなら、「死ぬのは偶然だが、生まれるのは必然である」といったところでしょうか。ということは、その「始まり」も、その「終わり」も、それを見て取って決めているのは、実は私たちなのかもしれません。

「終わり」と「始まり」が同居する不思議な世界。そんなことを思った春の日の遊歩道でした。


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櫻雲繚亂路 桜雲 繚乱の路
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緩步醉韶華 緩歩して 韶華に酔う
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忽起回風下 忽ち起こる 回風の下
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茫然見落花 茫然として 落花を見る


五言絶句、「華」「花」下平声・六麻の押韻です。

五言絶句は「漢詩徒然草」では初登場ですが、「初めての人のための漢詩講座(16)」で取り扱っています。絶句よりも短い分、その限られた字数の中で伝えるべき詩情を詠み込まなければなりません。わずか二十字の中に、一呼吸でスラリとその思いを吐露します。絶句より難易度は高いですが、より直接的に作者の心を伝えることができる形式ではないでしょうか。
 

同“意”重出の禁

漢詩には「同字重出の禁」というルールがありますが、前回、同じ意味の言葉を使うのを避ける、というお話をしました。「同“字”重出の禁」ならぬ「同“意”重出の禁」とでも言うべきところですが、実は「同字」より「同意」の方がよっぽど致命的です。

なぜなら、同じ字を使うのがいけないのではなく、同じことを繰り返すのがいけない、ということに気付いていないからです。ルールを知るということ以上に、そのルールが「何をしようとしているか」を知ることが重要なのです。

例えば「花」という字をもう使ってしまったので「華」という字を使っていいかと言えば、決してそうではありません。むしろ絶対に避けるべきです。「花」を使ってしまったので「華」を使おうという考えになるのは、何が問題なのかをわかっていない証拠です。

問題は、同じ内容を繰り返さないことです。たとえ違う字であっても、同じ意味であれば内容が繰り返しになるのは必至です。さらには、同じ意味でもなかったとしても“同じような”表現をしていたら、結局は繰り返しになります。「花」のあとに、それに類する「萼《がく》」や「蕊《しべ》」を用いて表現してもまったく意味はない、ということです。だから「同字」より「同意」の方が問題なのです。

今回の詩では「花」と「華」で押韻しています。両方、同じ「花」という意味を持ちますが、「華」の方は実はここでは「光」という意味です。だから同意重出にはならないのです。つまり、詩作をするときは、その一字一字が何を意味しているかをよく吟味して使う必要があるということです。

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