摩擦があればこそ

野田 芳樹
2021/9/22

私が副住職を務める林昌寺には、南門と北門があります。それぞれに掲示板が設けてあり、そこにはよくお寺で見かける金言や法語がしたためられたポスターが貼ってあります。

私が修行道場から林昌寺に帰ってかれこれ5年ほど。師匠である父からもらった最初の仕事が「毎月掲示板に貼る言葉を見つくろって、それを欠かさず書いて貼りかえること」でした。

2021年8月の掲示板。言葉は「その時の自分に刺さったもの」を書きます。

今でも毎月私が掲示板の「言葉」を書いては貼りかえています。林昌寺では先代の頃から、カレンダーの裏紙を再利用して書いています。役目を終えたカレンダーの裏面を使い、最後まで紙を無駄にしないようにという先代住職である祖父の「もったいない精神」が受け継がれているのです。


ところが少々困ったことが。それは、多くのカレンダーの紙はツルツルしていて非常に書きにくいのです。通常、書道でお稽古をするときに使う紙は手すきの紙で、表面がざらざらしています。当然、書き進めるにあたっては摩擦が生じ、筆が滑って芯の無いフニャフニャした線にならないように適度に運筆《うんぴつ》をとめてくれます。

書道では、この紙と筆の間に生じる適度な摩擦がとても大切です。作品を書くときには一息でスッと線を引くことも大事ですが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に重んじられるのは線の「あや」です。「あや」というのはほどよい線の揺らぎのこと。これを表現するには適宜筆を運ぶ速度や力の入れ具合をコントロールし、ゆとりをもってグイッグイッとゆったりリズムに乗り筆を進めていく必要があります。

「あや」を表現できるようになると書に表情が生まれ、ひいてはその人の個性・特徴をあらわす「作品」にまで昇華されていくのです。摩擦が無ければ筆の速度を調節することが難しくなり、「あや」を生み出すことは至難の業でしょう。

私が書いた「閑」の字です。これが単調な直線のみで書かれていると、面白みに欠けます。

カレンダーの裏紙に書いた後で改めて半紙に作品を書いてみると、いつもこう思います。

「やっぱりしっかりした摩擦がないとあやができないなぁ。カレンダーの裏紙じゃいい作品にならん、だめだこりゃ。」

と。時には、うまく書けないことが重なると、「使い古しのカレンダーを使うべし」という風習を遺した祖父をうらめしく思うこともあります。


ある日、昔の掲示ポスターを整理していたときのこと、祖父が生前書いたと思われるものが何枚も出てきました(もちろん、ツヤツヤのカレンダーです)。その中に「私たちはお互いのふれあいの中で生かされている 調和がだいじ」という文言がありました。書道を続けている私から見て正直に言えば、お世辞にも達筆とは言えません。しかし、どことなく愛嬌があり、ツヤツヤ紙の上でも楽しげに筆を走らせている祖父の面影が見えるような、味のある作品でした。

これを見たとき、ハッとさせられました。ポスターだろうとすき紙だろうと、筆と紙がふれあえば、多かれ少なかれそこには必ず摩擦が生まれます。そもそも摩擦がなければ字は書けないわけで、そのことに目を向けず自分の技量不足で「摩擦がないからあやができない」と不満を垂れていた私を、祖父がたしなめてくれているような気がしました。「ちゃんと紙と筆の『ふれあい』を感じているか?『調和がだいじ』だぞ。」と。この発見を受け、今ではどんな紙にもそれぞれ違った書き味があるのだと思い直し、書に「ふれあう」ことそのものを楽しめるようになりました。

「あや」とは書道の技法のことだと思っていましたが、書にふれあったときに生まれる、自分自身の素直な内面の動き(喜び、楽しみ、感謝や、うまく書けない不満、葛藤など)のことを言うのかもしれません。そう考えると、「書がかける」「書道が続けられている」ということそれ自体が楽しく有り難いことなのだと思えます。


この話をもう少し押し広げて考えてみると、私たちの日々の暮らしにも同じことが言えるような気がします。すなわち、私たちは日ごろ周りの人やもの、自然との「ふれあい(=関わりあい)」の中で調和し生かされていることには目を向ける機会も少なく、ともすると自分の力だけで生きていると思いがちです。誰かに世話になることを疎ましく思う風潮さえあります。

しかし、人が生きていく上で誰とも・何とも関わらずに暮らしてゆくことはできるでしょうか?私たちは日々、気づくと気づかざるとの内にいつも誰か・何かとふれあい、そこには必ず「摩擦(=関係)」が生じているはずです。摩擦がなければ立つことすら困難なのと同様、周りとの関係がなければ私たちは生きていけません。

私たちはその「摩擦」の中で、楽しみ、笑い、お互いに調和してゆける喜びを味わいます。一方で、時に悔しさや葛藤、分かりあえない不満などに涙することもあるでしょう。しかし、それらをひっくるめて「あや」であり、書と同じく「あや」があるからこそ、日々の暮らしに味わいが出てきて素晴らしい「作品」に昇華されてゆくのではないでしょうか。

近ごろそんなことを考えながら、書を楽しんでいます。

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