書に「上手い・下手」はある?

野田 芳樹
2021/6/29

書道に関わっていて、かなり頻繁に耳にする言葉があります。それは、

「野田くんは、字が上手くていいねえ。」

というもの。あるいは、こんな言葉も。

「僕は字が下手くそだから、野田くん代わりに書いてよ!」

あまり習字・書道になじみがなく、日ごろ手書きをあまりしないという人にとっては、鉛筆であれペンであれ筆であれ「字を書く」ということ自体ハードルが高いのかもしれません。お手紙や履歴書、封筒の表書きなど改まった場で何かを書かねばならないときには、いっそう緊張感がありますよね。(私もそうです…)

ですが、人が生み出す文字に、そもそも上手い・下手という考え方は当てはまるのでしょうか?あるとしたら、その線引きは一体どこでしょうか?

 

展覧会で見かけた、小学生の子が書いた作品。素直な書きぶり・言葉選びにグッときます。

個人の見解ですが、私としては書に「上手い・下手」という区別はあるものだと考えています。

ただし、ここで言う「上手い」とは、トメハネがしっかりできているだとか、字の均整がとれいているだとか、見た目や技巧の話ではありません。

私が考える真に「上手い字」というのは、「気持ちをこめて丁寧に書かれていること」、そしてその結果として「文字の中に書き手の存在が感じられること」だと思っています。(当然、文字には「何かを伝えるためのツール」という実用的な側面があるので、「読める」ということが大前提ですが)


先日、小学校時代から付き合いのある幼馴染から、初めての子どもが生まれたとの連絡をもらいました。私はお祝いのしるしとして、「名前が決まって命名書を用意するつもりなら、書くから遠慮なく言ってね」と伝えました。すると、彼からはこんなお返事が。

お気持ちありがたいです。でも、自分が父親としてしてあげられる最初のことだから、自分で書きたいんだよね!

その後、彼は昔一緒に通っていた書道塾(私が今も通っているところです)に足を運び、先生に手本をお願いして、その場で指導を受けながら練習していました。

 

先生の指導を受けながら、丁寧にお子さんの名前をしたためる幼馴染。

確かに、出来上がった文字そのものは書道のプロである先生が書いた方が調って見えるのかもしれません。けれど、「我が子のために」と今後の成長や幸福を願ってまごころ込めて書かれたお父さんの字はとても生き生きとしていて、確かに私の心に染みわたりました。

この様子を見て私は、書に取り組む姿勢を改めて教わりました。見栄えや字の巧拙にこだわることも大切だけれど、それ以上に大事なのは「どんな思いをもって字を書くか」なのだと。

将来その子が成長し、命名書を見て、お父さんが自分のために心を込めて書いてくれたものだと知ったとき、いっそう親の愛情を感じて嬉しくなるのではないでしょうか。そこには紛れもなく、書いた人の息吹やぬくもりが感じられるでしょうから。

文字に気持ちをこめるとは、それを受け取る相手や見る方々が喜ぶ姿を思い描きながら書くことではないか。そうして書かれた文字こそが、本当の意味で「上手い」と言えるものなのではないかーーそのようなことを、幼馴染とのやりとりから感じた次第です。


中国禅宗の三祖と呼ばれる僧璨禅師《そうさんぜんじ》の言葉に、「至道無難 唯嫌揀択《しいどうぶなん ゆいけんけんじゃく》」というものがあります。「悟りの道を明らかにすることは難しいことではない、ただし、こだわりの心を離れることができたならば」という意味です。

「こだわりの心」とは書に即して言うならば、「展覧会でよく評価されよう」とか「他者から褒められるような字を書こう」とか「下手くそというレッテルを貼られるのが嫌だ」などという考えを起こして体裁にばかり気が向き、気持ちががまったくこもっていない状態と言えるでしょう。これでは、「書の道を明らかにする」には少々心もとないですね。

仏道でも書道でも、外の世界のあれこれに惑わされることなく、自身の心を見つめ養っていくことが大切だと思います。

もちろん書を学ぶ上では、展覧会での入賞を目指すことや、他者からの評価を獲得するなどの向上心や見栄えを良くする工夫は必要ですが、外の評価を第一義にすると文字の「息の根」が止まってしまうような気がしてなりません。

何かを書くときは、見た目にあまり固執せず、受け取る相手や自分の気持ちに思いをはせて、楽しく素直に筆をとりましょう。自戒を込めて。

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