「休符」としての書道

野田 芳樹
2023/2/22

現代社会はモノやサービスにあふれています。身近に何でもあることが当たり前で、それこそが豊かさであると考えられています。モノやサービスが生み出される背景には私たち一人ひとりの「生活をより良くしたい」との欲望があり、そのためには効率よく意味のあるものをたくさん・すばやく生み出すことがよしとされる風潮があります。

しかし効率と意味とを際限なく求め、モノやサービスを生み、消費し続けた先に待っているのは、本当の豊かさでしょうか?

人には、時に効率偏重の価値観から離れ、なにも意味をもたないような「間」を楽しむゆとりが必要です。間を大切にすることで、周囲の存在に丁寧に眼差しを向ける余裕が生まれ、結果自分も他者も活かすことにつながるように思います。間があればこそ、ヒトは他を慈しむ「人間」になれるのであり、人間として自他ともに活かしあうのが本当の豊かさではないでしょうか

何につけても効率や意味ばかりを追い求めて窮屈な思いをする人の多い現代において、「なにもない」ということの意義深さを改めて見つめ直すことは私たちの心を安らげる糸口となるように思います。今回はこの思いに突き動かされ、「なにもない。だから、ゆたか。」という語をしたためました。



「なにもない。だから、ゆたか。」――この言葉を考えるときに私の頭に浮かぶのは、大学時代にある先輩から授かった「休符を奏でろ」という金言です。

私は大学の頃、バンドのサークルに入っており、ドラムをかじっていました。大学まで楽器などほぼ触ったことはありませんでした。サークル見学でとても巧いドラムの先輩の演奏を聴き、「こんな風にかっこよく演奏できたら」と憧れて始めたのでした。しかし、どれだけ練習しても一向に臨場感あるリズムを奏でることができません。そこでそのドラム上手の先輩に「ドラムを演奏する上で大切なことは何でしょうか?」と尋ねると、一言。

「それは、休符をしっかり意識して奏でることだね。」

と。休符とは、ご承知のように、音楽の中で音が休止して無くなる箇所を示す記号のことです。

「音が無くなるのに、それを奏でろとはどういうことだろうか…?」そう疑問に思って面食らっている私の様子を見た先輩は、続けてこう教えてくれました。

「野田の演奏は、メリハリがない。メリハリがない原因は、音がある所にだけに意識がいって、休むべきところをしっかり休んでいないことだと思う。休符の箇所は演奏上はなにも音が無くなるけれど、休符があるから他の音符が際立って、より活きてくるんだよ。」――この考えは、私にとって目から鱗でした。

私が「音がない=無意味。適当にやり過ごせばいい」と思っていた休符は、実は次の音を生み出すために不可欠な「間」だったのです。その間があるからこそ、他の音が引き立ちバンド全体が調和します。



押し広げて考えれば私たちの日常の中でも、間を保ち他を思いやって活かすこころを育むために、休符のような「なにもない時間」をないがしろにせず「積極的に奏でて日々にメリハリをつける」という心持ちが大切ではないでしょうか。

私にも、自分にとっての休符にしている習慣があります。皆さまは「Nesto(ネスト)」というコミュニティをご存知でしょうか?「Nesto」は、Zoomというビデオ通話のツールを使って様々な習慣を実施する場を開き、集った人たちとともに習慣を共有することで、お互いの心身の充足を志向するオンライン共同体です。

Nestoには「リズム」と呼ばれる「習慣」が多数開かれており、それぞれに場を進行する世話役がつきます。「バカンス読書のリズム」、「のびのび図工のリズム」…など、ユニークなものがたくさんあります。その中で私は「禅書道のリズム」という習慣の場の世話役を週に一度しています。

参加者には、初めに「今の自分の思いや心身の調子を見つめて、それを表す一文字を思い浮かべてください」との問いを投げかけます。その後、皆で五分ほど坐禅をしてその中で先の問いを考えます。坐禅後は選んだ一文字を筆やペンなどで書き、最後に参加者同士で「なぜそれを書いたか?」を語り合います。もちろん、自分自身も取り組みます。

個々人が坐禅をしたり書をしたためたりしても、世間一般に役立つモノやサービスが生まれるわけではありません。その点では、なにもない無駄な時間のように思えます。しかし私にとってこの習慣は、自身の内面を深掘りして調える、この上なく豊かな「休符」であり「間」なのです。

参加されたとある方から、次のような感想を頂いたことがあります。

「会社では何らかの成果を常に求められる。そんな日々に忙殺され、なかなか自分のことを振り返るゆとりがない。週に一度でもこうして坐禅して自らと対話して書で表現することで、自分にも他人にも優しくなれる感じがする。この機会に感謝したい。

この言葉を聞いて、自分がやっている無意味と思われても仕方ないことが、誰かの役に立つこともあるのだと反対に有り難く感じ入りました。



効率や成果を求めたり求められたりすることがなにもなくなれば、自分の内面の奥深くに潜っていきやすくなります。その結果として、自分の中に他の存在を大らかに受け容れられる「間」を見出すことができ、自他ともに慈愛の眼差しを向けやすくなるのではないでしょうか。

「なにもない。だから、ゆたか。」――生きる上で効率や意味を求めることは不可欠な場合も多くあります。しかし、折々に自分なりの休符を奏で、適度にひと休みして間を保ちつつ互いに思いやりを失わず、心豊かに暮らしてゆきたいものですね。



 

*この文章は『禅文化』第266号(発行:公益財団法人 禅文化研究所/2022年10月25日発行)に寄稿した文を加筆・修正したものです。

*Nestoはどなたでも入会できるオンラインコミュニティです。「禅書道のリズム」単体でのお申し込みも可能です。ご関心ある方は、NestoのWebサイトをご一読ください。

▼Nestoについて
https://www.nesto.life/

▼「禅書道のリズム」お申し込み
https://x716r7dlhhz.typeform.com/to/GXYbqDhp

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