「すみからすみまで墨のお話」体験記

野田 芳樹
2022/12/22

先日「ZENzine」内で告知をさせていただいた墨の講座「すみからすみまで墨のお話~書のまち春日井に、奈良墨の香り~」が11月13日に開催されました。

約30名の参加者がいらっしゃり、盛況のうちに幕を閉じた本企画。「書のまち春日井」での開催ということもあってか、半数近くが何らかの形で書道に関わっている方々でした。今回はその企画のレポートとして、私が特に印象に残った内容・場面を写真とともに皆さまにもお伝えします。

企画は次のような内容で進行しました。

1. 墨に関する講座
2. 墨づくりの実演
3. 「にぎり墨」体験
4. 試し墨


以下、順を追ってそれぞれにレポートしてきます。その前に、まずはこの企画を立てた経緯から。


0.企画までの経緯

今回、講師をつとめてくださったのは、奈良県の墨工房「錦光園《きんこうえん》」七代目の長野睦《あつし》さん。

2021年の暮れ、私が書の作品づくりに行き詰まり「墨について研究しよう」と思い立ち思い切って工房を訪ねたところ、とても親切に墨のことを教えてくださいました。色々なお話を聞く中で特に強く印象に残っているのは「墨は日本に伝わって以来1,000年以上続く伝統工芸だが、近ごろは墨を磨る人も少なくなり、斜陽産業となりつつある」という話でした。

自分の代で伝統の灯を絶やさないように、墨の歴史や価値を積極的に伝えていこうとされる長野さん。TwitterInstagramなどのSNSで墨づくりの様子をアップされたり、オンラインで墨の講座を開いたり、学校に出向いて出前授業をされたりと、様々な手法で墨のもつ魅力を伝えることに尽力されています。

そんな長野さんの熱意に触れ、「自分も書をたしなむ者の端くれとして、何か力になれることはないか」と考えるようになりました。そこで「『書のまち』と呼ばれる春日井の地にお招きして、身近な人たちにも墨の魅力や長野さんの職人魂に触れてもらう機会を作ろう!」と思い立ち、今回の企画実施にいたりました。


1.墨に関する講座

最初に長野さんから、墨の材料や製法などのお話をしていただきました。

基本的な墨は、

・すす
・膠《にかわ》

・香料


のたった三種類のみの材料からできている、というお話には特に驚きました。すす・にかわ・香料の種類の組み合わせや配合比率により、何通りもバリエーションができるわけです。

中でも膠の配合の仕方が墨づくりを大きく左右する一番のポイントとのこと。膠は動物の骨や皮、内臓などを煮詰めて濃縮し、凝固・乾燥させたものです。溶かして交ぜることで接着剤の役割を果たし、すすが結合して固形の墨になるのです。

作りたての墨は膠の接着力が強く残っているため磨りにくいのですが、年月を経ると膠の効力が落ち着き磨りやすくなります。「目安として、出来上がった墨は2年ほど乾燥させると膠の力が程よくなってくる。墨はすぐには使わない方が良い」という話を聞き、墨づくりの世界のゆったりと大らかな時間軸に憧憬の念を抱きました。

固形の膠。これを溶かしてすすと混ぜ合わせます。

膠は動物性たんぱく質ですので臭いが強く、管理の仕方によっては腐ってしまうこともあります。その臭いを消すために香料をまぜ合わせるのだとか。多くの方が「墨の香り」と思っている芳しいあの香りは、実は香料由来のものなのです。

原材料がここまでシンプルなのにも関わらず、その組み合わせ方を日夜考え、試行錯誤してよい風合いの墨を日々作られている職人さんの創意工夫に改めて敬意を覚えました。


2. 墨づくりの実演

次に、長野さんが実際に墨づくりの実演をしてくださいました。(長野さんはこの日のために、原料をまぜ合わせた生墨をあらかじめ作り、固まらないよう炊飯ジャーに入れて持参してくださいました)

固まる前の生の墨は、少し硬さのある粘土のような触り心地です。それをまずは手でこねて空気を抜き、その後型にはめていきます。

型から抜いた墨はまだフニャフニャの状態。これを2年以上乾燥させて初めて完成を迎えるのです。

墨の基本的な作り方そのものは、安い墨でも高い墨でもほとんど同じだそうです。冗談交じりに「安くても高くてもかける手間は同じなんて、墨づくりって理不尽でしょ?」と、長野さん。

「理不尽」と思いながらもそこに折り合いをつけ日々同じ墨づくりの工程を繰り返す――長い歴史をかけて育まれてきた伝統工芸・文化を自分が背負っているという気概がなければ務まらないことだと思います。職人さんの心意気に触れ、私自身も仏教という歴史ある教えを担う者の一人としてとても励まされる思いでした。


3. 「にぎり墨」体験

実演の後は、いよいよこの企画の目玉である「にぎり墨」のワークショップへ。文字通り、練った棒状の生墨を一人ひとり手で握り、手形をつけます。

まずは参加者の手にサラダ油をぬり、

棒状に成形した生墨を手渡し、

握手するようにグッと握ってもらいます。

すると、このように手形と指紋がくっきりとつき、世界に一つだけの「マイ墨」が誕生します。

握った後の墨は紙でくるんで桐箱に入れ保管します。

長野さんからは「墨が完全に固まるまで最低でも3か月は必要です。来年の3月までは楽しみに待っていてください。墨は生き物で、急激な気温や湿度の変化にさらされると一瞬で割れてしまうため、箱は絶対に開けないでくださいね!」という説明がありました。

「墨は生き物」という言葉には目から鱗で、自分自身が持っている墨も大切に扱わねばとハッとさせられました。墨は桐箱に梱包するだけでなく、木造りのタンスの中など直射日光に当たらず風通しがよく、湿度が程よい環境下で保管しなければ、ヒビが入ったりカビが生えてしまい品質が劣化するそうですので、墨をお持ちの方はご注意を!

参加者皆さん、写真を撮ったり生墨に触れた感想を言い合ったり、長野さんに質問を投げかけたりなど、和気あいあいとした雰囲気でワークに取り組んでいました。


4. 試し墨

最後には、長野さんが工房から持参してくださった錦光園製の様々な種類の墨を自由に使い、それぞれの色味やにじみ具合、香りの違いを楽しむ時間をもちました。

ずらりと並ぶ錦光園で作られた墨たちの中から、参加者が好きなものを選んで硯で磨って紙に書き、その風合いの違いを体感します。

墨のすすの種類(大別して、松の樹を燃やして採られたすすか、油を燃やして採られたすすかの二種)に加え、墨の磨る回数や水の量、どのような硯・筆・紙を使うかなどの条件によって墨の風合いは変化します。

墨の色やにじみ具合によって書の作品の出来は大きく左右されるため、しっかりと墨を比較検証してそれぞれの性質を理解した上で、自分の作風にあったものを選ぶことが欠かせません。手塩にかけて育てた貴重な墨を「お試し」として分けてくださり、墨の違いを肌で体感する機会をくださった長野さんには、ただただ感謝です。


5. 最後に

今回の企画を通して私自身が最も感動したのは、長野さんの墨職人としての心意気です。長野さんは実は、六代目であるお父さまの反対を押し切って墨職人になった(元はサラリーマンだった)と伺いました。

「父から継ぐことを請われてしぶしぶ職人になった」(もしくは、懇願に反発して家を飛び出した)という話は、職人の世界ではよくありそうなものですが、長野さんはその逆で自ら望んで職人の道を選ばれたのです。

小さい頃から墨工房で生まれ育ち、先代の祖父や父の後ろ姿をみてきて「自分がこの伝統の灯を絶やすわけにはいかない。この墨づくりの原風景を守りたい。」との思いで職人になったというお話を聞き、感動しました。

私は書道をたしなむ者として日ごろ当たり前のように墨を「消費」します。しかし、一つひとつの墨の背景には、作り手の想いや願いがこもっています。そのことを今一度肝に銘じて、大切に使わせていただかねば――長野さんとの出会いによって、改めてそう思い直しました。

人の想いを慮り、その結晶としての道具を大切に扱うこころがあればこそ、道具への理解も深まり扱いも丁寧になり、結果としてより深みのある書ができるのだと思います。

墨づくりにとどまらず、書家としての大切なこころがけを教えてくださった長野さんに、今一度お礼申し上げます。この記事をご覧の皆さまも、ぜひ一度錦光園を訪れていただき、長野さんの謦咳《けいがい》に接する機会をもっていただければ幸いです。

*長野さんが錦光園Webサイト内のブログでも、本企画について書いてくださっています。ぜひあわせてご覧ください。

▼七代目ブログ「『臨済宗 妙心寺派 薬師山 林昌寺』~愛知県春日井~」
https://kinkoen.jp/info/workshop/3257/

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