鈴木大拙が出会った人々(2)今北洪川-前編
今北洪川老師との出会い
明治24年7月、鈴木貞太郎は鎌倉・円覚寺の門を潜ります。故郷金沢から東京へ上り、東京専門学校(1)に入学した1ヶ月半ほど後のことです。彼が円覚寺へ来たのは、今北洪川老師の下で参禅をするためでした。
洪川老師に相見《しょうけん》(2)するべく正続院(3)の隠寮(4)に通された鈴木貞太郎は、その時のことを印象深く記憶しています。
洪川老師は奥から出て来られた。今日もそこに懸けられてある油絵の額でもわかるやうに、老師は堂堂たる体躯の持ち主であった。自分は何を云つて何と云われたか、今全く忘れて居るが、唯々一時あつて記憶に残る。それは、老師が自分の生国を尋ねられて、加賀の金沢だと答へたとき、老師は「北国のものは根気がよい」と云はれた。「大いにやれ」と励まされたかどうかは、今覚えて居ない。
(鈴木大拙『今北洪川』)
学問から参禅へ
この初相見以後、鈴木貞太郎は夏の一ヶ月余りを円覚寺で過ごします。この頃も今と同じく8月は夏期休業だったようです。そうして9月には東京の下宿・久徴館へ戻りますが、翌月には東京専門学校を退校し、11月に再び円覚寺へやってきます。
そうしてこの年の冬を円覚寺で越すこととなりました。年が明けた明治25年1月16日、洪川老師が遷化《せんげ》(5)されます。結果として鈴木貞太郎が洪川老師の指導を受けることのできたのは実質わずか三か月半という短い期間でした。
しかし、このわずか数か月の出来事、特にこの最初の出会いが、鈴木貞太郎が禅を志す決定的な因縁となったのです。二人の出会いについて、さらに有名なエピソードがあります。
いつかの朝、参禅と云ふものをやつたとき、老師はの妙香地に臨んで居る縁側で麤末《そまつ》な机に向はれ、簡素な椅子に腰かけて、今や朝餉《あさげ》をお上りになるところであつた。それが簡素極まるもの。自ら土鍋のお粥をよそつて、お椀に移し、何か香のものでもあつたか、それは覚えて居ないが、とに角、土鍋だけはあつた。そして如何にも無造作に、その机の向う側に在つた椅子を指して、それに坐れと云はれた。そのときの問答も亦、今全く記憶せぬ。只々老師の風貌の、如何にも飾り気なく、如何にも誠実そのもののやうなのが、深く吾が心に銘じたのである。〔中略〕禅僧と云ふものはこんなものかと、そのとき受けた印象、深く胸底に潜んで、今に忘れられず。
(同上)
円覚寺の修行者たち
具体的な言葉のやりとりを忘れたとしても、人の印象は永く残ります。洪川老師の他にものちに円覚寺と東福寺で管長となられた広田天真《ひろたてんしん》老師(6)が当時円覚寺僧堂の知客寮《しかりょう》(7)として在錫していました。そして僧堂の雲水だけでなく、当時の居士たちにも錚々たる人物が名を連ねていました。
当時の円覚寺には洪川老師をはじめ、道俗の修行者たちが醸す禅の空気が満ちていました。その空気に触れることで、鈴木貞太郎は入学したばかりの学校をやめて、禅の修行生活に入る決心をしたのです。
若き日の今北洪川老師
このように円覚寺が関東における参禅修行の一大拠点となったのは、やはり洪川老師の手腕に依るものでしょう。では、何故当時の参禅修行者が円覚寺の洪川老師の下に集まるようになったのか。この点を洪川老師の生涯に即して紹介していきたいと思います。
洪川老師は、文化13年(1816年)摂津国に生まれます。幼い頃から父の書斎に入り浸り、7歳の頃には父から漢文の読み方を習い、2年ほどで四書五経が読めるようになります。そうして9歳の頃には福泉仙桂上人の下で就学、4年間でほとんどの漢籍を学び終えてしまい、福泉上人は自分の師である儒学者・藤沢東畡《ふじさわとうがい》(8)のもとに若き洪川老師を連れていきました。
14歳からの5年間を東畡の下で学んだ洪川老師は、19歳で独立、大坂中之島に漢学の私塾を開きます。中之島は大坂中心部にある水運物流の要衝で、当時は諸藩の蔵屋敷が並んでいました。洪川老師が開いた塾では、そうした蔵屋敷に仕える武士の他、医者や僧侶たちが学び、門弟が常に30人を下らないという状況でした。
儒学者から禅僧へ
しかし、私塾を開いて5年程した頃、洪川老師は出家を決意します。ある日の講義で『孟子《もうし》』(9)の「浩然の気」《こうねんのき》(10)について論じていたときのことです。洪川老師は「孟子は浩然を説く、我は浩然を行ず」と声高に宣言したのです。
洪川老師は以前から「孔子よりも荘子の方が偉大である」という見解をもっていました。孔子の説く人倫の道よりも、老荘思想のもつ神秘主義的な方向に惹かれていたのです。
洪川老師が出家の志をもつようになったことを心配したのが両親でした。両親は出家を断念させるために、洪川老師を結婚させますが、結局その志を挫くことはできませんでした。洪川老師は遂に妻と両親、親族に別れを告げ、家を出たのでした。
洪川老師の参禅修行
天保11年(1840年)9月、京都相国寺に上り、鬼大拙の異名をもつ大拙承演《だいせつじょうえん》禅師(11)の弟子となります。11月に正式に出家得度して、相国寺僧堂の衆に加わりました。しかし、鬼大拙の指導は苛烈を極め、入室参禅するたびに洪川老師は激しく罵倒され打ちのめされるという状態でした。
このとき刻苦の最中にあった洪川老師を励ました法友が、のちに相国寺に住することになる荻野独園《おぎのどくおん》老師(12)でした。13歳で出家、18歳から儒学者・帆足万里《ほあしばんり》(13)の門に入り、仏教の経典の他、『周易』など儒学の文書も研究して講師を勤めるに至るなど、儒学者としての経歴は洪川老師に共通するところがあります。その独園老師が洪川老師から一年遅れて相国寺僧堂に掛搭してきたのです。二人が互いに益友となったことは間違いありません。
そうして相国寺で7年の修行生活を過ごした洪川老師は、最初の悟りを得たと言います。しかし大拙禅師はそれを認めつつも、岡山・曹源寺(14)の儀山善来《ぎさんぜんらい》禅師(15)の下でさらなる研鑽を積むように洪川老師に命じました。以後、洪川老師はこの儀山禅師の指導の下、曹源寺を拠点としつつ、各地の宗匠に歴参していきます。そうして儀山禅師の下で洪川老師は大悟したのです。
永興寺と『禅海一瀾』
その後も修行を続けていった洪川老師は、安政5年(1859年)、周防国岩国の永興寺《ようこうじ》(16)の住持となります。以後、ここを拠点として禅の指導者として活躍していきます。注目すべきは、この永興寺時代に著された『禅海一瀾』《ぜんかいいちらん》という書物です。この書は岩国領主・吉川経幹《きっかわつねまさ》(17)に献上するために書かれたものです。
吉川経幹は岩国に藩校である養老館を創設するなど文教政策に力を注いだ人物でした。しかし彼は主に儒学を重んじていたため、洪川老師は彼のために、儒教の徳目を用いて仏教を説くという形で書籍を撰したのでした。儒仏一致を説くこの書が著されたことにより、永興寺の洪川老師の下には出家の修行者だけでなく、多くの藩士たちが参禅に訪れるようになります。
江戸時代の基礎教養はやはり儒学でしたので、そうした学問を修めた藩士たちにとって、儒教との関わりから仏教を説くことのできる洪川老師は、非常に魅力的な指導者であったことは想像に難くありません。
ここに洪川老師の居士禅指導が始まり、これが鈴木大拙を輩出する円覚寺の居士禅へと連なっていくのです。
(後編へつづく)
『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第3回「今北洪川 – 後編」は、2022年11月20日頃に掲載予定です。
- 東京専門学校:明治15年(1882年)、大隈重信により東京府に設立された私立学校。早稲田大学の前身。
→早稲田大学/早稲田大学について/早稲田の歴史/概要
- 相見:対面すること。特に師となる禅僧と初めて対面することを初相見という。
- 正続院:円覚寺開山仏光国師の塔所。開山堂および舎利殿を護持する他、円覚寺中興大用国師によって修行道場と定められた。
- 隠寮《いんりょう》:修行道場の指導僧である師家の起居する建物。
- 遷化:禅僧が亡くなること。
- 広田天真:安政3年 愛媛県越智郡弓削村に生まれる。臨済宗総黌において今北洪川に師事、その後円覚寺僧堂に掛搭、洪川老師の法を嗣ぐ。円覚寺派管長、東福寺派管長を歴任。大正13年遷化。
- 知客寮:修行道場における来賓対応役。実質的には、修行道場の統括役を指す。
- 藤沢東畡:寛政6年 讃岐に生まれる。儒学者。大坂に出て泊園書院を設立して多くの実業家を輩出した。元治元年没。
- 『孟子』:中国戦国中期の思想家である孟子が当時の支配者や思想家たちと交わした会話・論争、弟子たちとの問答を記録した語録。四書の一つ。
- 浩然の気:天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。
- 大拙承演:寛政9年 若狭国に生まれる。曹源寺の太元孜元に就いて参禅。相国寺に住する。安政2年遷化。
- 荻野独園:文政2年 備前国児島郡に生まれる。相国寺の大拙承演の法を嗣ぎ、越渓守謙のあと相国寺住持となった。明治5年に教部省が設立されると、大教院の院長、さらには臨済・曹洞・黄檗の禅宗総管長となった。明治28年遷化。
- 帆足万里:安永7年 豊後国日出藩に生まれる。日出藩家老となった儒学者。嘉永5年没。
- 曹源寺:岡山県岡山市にある臨済宗妙心寺派の寺院。岡山藩主池田家の菩提寺。
- 儀山善来:享和2年 若狭国に生まれる。曹源寺の太元孜元に就いて参禅。太元禅師の後を継ぎ曹源寺に住した。他方、南宗寺、大徳寺に僧堂を開いた。
- 永興寺:山口県岩国市にある臨済宗天龍寺派の寺院。
→臨済宗天龍寺派 不動山 永興寺
- 吉川経幹:文政12年生まれ。初代岩国藩主。幕末の長州征伐の折に、幕府軍との仲介役として活躍した。なお岩国領が藩と正式に認められるのは大政奉還後で、経幹は死後に初代藩主と追認された。
→岩国観光振興課/岩国 旅の架け橋/長州を救った吉川経幹
写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
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