秋の円覚寺境内

鈴木大拙が出会った人々(3)今北洪川-後編

蓮沼 直應
2022/11/20

明治新政府の宗教政策

黒船の来航に始まる幕末の動乱は、およそ300年続いた徳川幕府を崩壊させ、日本に新時代を到来させました。そうして新たに樹立された明治政府は、日本を近代国家へと生まれ変わらせるべく、国内の諸制度を急速に変革させていきました。
 

明治初年には政府は神仏分離令を発し、神道と仏教を別個の宗教として分離し、神道を国家の宗教として挙用しようとしました。その神仏分離令の結果、日本各地で廃仏毀釈(1)が起こり、経典や仏像が破却されるという事態に至りました。明治という時代は仏教界にとって強い向かい風から始まったのです。
 

そんな新時代を、今北洪川老師は山口の永興寺にて迎えました。明治5年、政府は宗教統制を担う機関として教部省(2)を新設し、大教院制を開始しました。大教院とは、神道や仏教、他の伝統宗教が共同して国民教育をする組織で、その出先機関として各県に中教院が置かれました。洪川老師も教部省より教導職監事に任命され、山口中教院における活動にも関わるようになりました。
 

臨済宗十山総黌の設立

明治8年、当時の臨済宗は十本山の合同で運営されていました。そうして、この十本山(3)は新たに宗門の教育機関として、臨済宗十山総黌《そうこう》という学校を設立することを決めました。そしてその校長として白羽の矢が立ったのが永興寺の今北洪川老師だったのです。
 
この人選には、荻野独園老師(4)の推薦が大きく影響しているものと推測されます。独園老師と洪川老師はかつて相国寺僧堂でともに大拙承演禅師(5)の鉗鎚(6)を受けた益友でした。独園老師はその後、相国寺派管長となり、また大教院が設置されるとその院長として東京に移って来ました。洪川老師の教養の深さを近くで見知っていた独園老師が新たな学校の校長として、洪川老師を推薦したのはごく自然なことでしょう。
 
明治8年5月末、今北洪川は遠路を経て東京へ上ってきます。当初、十山総黌は東京の芝の金地院(7)に置かれており、6月1日に金地院にて開講の提唱が行われています。
 
その一か月後の7月1日には、十山総黌は湯島の麟祥院(8)へ移転となり、以後は麟祥院にて提唱や参禅が行われていくことになります。当時の記録によるとその学校に参加していたのは、僧侶100名、居士30名ほどだったといいます。
 

奥宮慥斎と両忘社

その十山総黌の参禅に奥宮慥斎(9)という人物が参加するようになります。彼は教部省の役人で、教部省の国内視察の際、山口にて洪川老師と出会っています。洪川老師が岩国で著した原稿段階の『禅海一瀾』を出版するように勧めた人物こそ、この奥宮慥斎です。奥宮は自身も禅に強く心惹かれていた人物で、東京に洪川老師がやってきたことで、彼の下で参禅修行することを決意し、麟祥院の洪川老師の下に通うようになります。
 

その奥宮はやがて、洪川老師を中心とするコミュニティを組織します。それが両忘社という団体です。会の規約によると、洪川老師を盟主として禅を修めるもので、毎月21日に会員が集まって、参禅ののち詩歌や書画をもって交流するといったものでした。そこに参加するには、会員の紹介が必要であるというもので、参禅だけでなく雅興をともにするサロン的な性格の組織でした。
 

その会員に名を連ねていたのは、奥宮の他に、山岡鉄舟(10)、鳥尾得庵(11)、伊達自得(12)ら10名ほどの居士たちでした。当時東京にいた著名な居士たちが続々と洪川老師の下に集まってきたことが窺えます。また居士だけでなく、当時海禅寺の住持であった敬冲文幢老師(13)もその会に参加していたことが記録されています。
 

このように奥宮が中心となって、東京に洪川老師を中心とする居士たちのコミュニティが築かれることになったのです。
 

円覚寺住持に就任

そんな中、洪川老師は新たな招きを受けます。円覚寺が、空白となった住持職に洪川老師を請じたのでした。円覚寺では、明治8年3月に住持である鈴村荊叢(14)が遷化したことにより、住職不在になっただけでなく、修行道場である正続院僧堂(15)も閉単(16)となっていました。残された奉行職は、新たな住持および管長として、東京の今北洪川老師を招こうとしたのです。荻野独園老師の推薦もあったものの、洪川老師はこの要請をたびたび辞退します。しかし、教部省から直接任命されることによって、遂に洪川老師はこの要請を受諾して、円覚寺住持となったのです。
 
同年12月、洪川老師は円覚寺にて入寺の儀式を行います。しかし、儀式を済ませた洪川老師は即座に東京へ戻ってしまいます。このときの洪川老師にとって、優先されるべきは十山総黌での参禅指導だったのです。
 

臨済宗十山総黌の廃止

しかし、こうした東京での活動は長続きしませんでした。明治9年になると臨済宗は各派に分裂、さらに臨済宗から黄檗宗が分離独立し、それまで十山で運営していた総黌は維持することが困難となりました。結果、明治10年には十山総黌は廃止となります。
 
そこで洪川老師はすぐに参禅指導の拠点を円覚寺へと移します。既に円覚寺派管長に就任していた洪川老師にとって、鎌倉こそが本来いるべき場所でありました。
 

円覚寺の修行道場

円覚寺の開山・仏光国師(17)の塔所である正続院は、江戸後期の大用国師誠拙周樗(18)によって再興されて以来、円覚寺の専門道場となっていました。大用国師は月船禅慧(19)を通じて古月禅材(20)の法系を伝えていましたが、鈴村荊叢が遷化したことによって、大用国師以来円覚寺に伝わっていたこの古月の法系は途絶えてしまいました。洪川老師は儀山善来(21)の法を嗣いだので、円覚寺は新しく白隠禅(22)の道場として再開単されたのです。
 
そして、洪川老師は正続院の僧堂を再開させただけでなく、隣接する塔頭(23)、正伝庵(24)を参禅の居士たちのための宿泊所として、新たに開放しました。「擇木園」と名付けられたその建物のお陰で、東京で洪川老師に参じていた山岡や鳥尾といった居士たちが引き続き集まることができるようになったのです。これによって、円覚寺では僧侶の修行と同様、居士たちの参禅も活発になり、居士禅の伝統が始まったのです。
 

洪川老師の遷化

円覚寺に移られてからの洪川老師は、開山・仏光国師の六百年遠諱(25)の厳修、正続院内の坐禅堂「正法眼堂」の再建など、住持としての仕事も併せてお勤めになりました。
 
そうして明治25年(1892年)1月16日に洪川老師は遷化されます。隠寮のお部屋に入ろうとしたはずみで転倒して、頭を打ったたことが原因でした。奇しくもそこに偶然居合わせたのは、半年前から参禅のために円覚寺に滞在していた大拙居士でした。彼はまさしく洪川老師が倒れるその瞬間、隠寮に居たのでした。
 
近代日本の居士禅の立役者である洪川老師の最期に、のちに日本を代表する居士となる鈴木大拙が立ち会ったということには、強い因縁を感じざるを得ません。洪川老師と大拙居士の師弟関係はわずか半年程のものでしたが、大拙居士は洪川老師との出会いを通じていよいよ疑いなく参禅の道を歩み始めたのです。
 
鈴木大拙が居士として円覚寺で参禅できたのは、まさしく洪川老師によって居士禅の環境整備が為されたことに拠ります。洪川老師の最晩年に円覚寺にやってきた大拙居士は、当時としては最も整備された環境で参禅することができたのです。


 

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第4回「釋宗演 – 前編」は、2023年1月20日頃に掲載予定です


  1. 廃仏毀釈:寺院の破却、経典の破棄、僧侶の還俗をすることで、仏教を排斥すること。
     
  2. 教部省:明治政府において宗教行政を担当する省。明治5年に神祇省に代わって設立されたが、明治10年に廃止となった。
     
  3. 十本山:南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・妙心寺・大徳寺・建長寺・円覚寺の臨済九本山に黄檗宗を加えた十の本山
     
  4. 荻野独園《おぎの どくおん》:文政2年 備前国児島郡に生まれる。相国寺の大拙承演の法を嗣ぎ、越渓守謙のあと相国寺住持となった。明治5年に教部省が設立されると、大教院の院長、さらには臨済・曹洞・黄檗の禅宗総管長となった。明治28年遷化。
     
  5. 大拙承演《だいせつ じょうえん》:寛政9年 若狭国に生まれる。曹源寺の太元孜元に就いて参禅。相国寺に住する。安政2年遷化。
     
  6. 鉗鎚《けんつい》:鉗は鍛冶に用いる金属製のはさみ。鎚は金づち。師家が修行者を鍛錬することを指す。
     
  7. 金地院《こんちいん》:東京都港区芝にある南禅寺派寺院。開創は元和年間。開基は徳川家康、開山は以心崇伝。家康の政治顧問を勤めた以心崇伝の居所として、江戸城内に金地院が建てられ、その示寂後に現在地へと移された。江戸時代には、僧侶の登録や住持の任免などをつかさどる僧録がおかれ、寺院統制の拠点となった。
     
  8. 麟祥院《りんしょういん》:東京都文京区本駒込にある妙心寺派寺院。寛永元年に創建。開基は春日局、開山は渭川周劉。明治期には東洋大学の前身である哲学館が同寺院内に設けられた。
    →臨済宗妙心寺派妙 天澤山 麟祥院
     
  9. 奥宮慥斎《おくのみや ぞうさい》:奥宮正由。文化8年土佐国土佐郡に生まれる。江戸の佐藤一斎のもとで学び、土佐において陽明学者として活躍。明治維新後は教部省の官吏として出仕。明治10年没。
     
  10. 山岡鉄舟《やまおか てっしゅう》:山岡鉄太郎。天保7年、旗本小野高歩の子として生まれる。幕末維新の折には、江戸城無血開城に貢献した。書道、剣道に通じ、さらに禅をも修めた人物。明治21年没。
     
  11. 鳥尾得庵《とりお とくあん》:鳥尾小弥太《こやた》。弘化4年、長門国萩に生まれる。幕末期には奇兵隊に入り、戊辰戦争を戦う。維新後は兵部省に入り、陸軍中将まで昇進した。退役後は、反欧化主義の立場から国家主義運動に従事した。明治38年没。
     
  12. 伊達自得《だて じとく》:伊達千広《ちひろ》。幕末の紀州藩士で国学者。陸奥宗光の実父。和歌によって禅を表現する和歌禅を提唱した。明治10年没。
     
  13. 敬冲文幢:文政7年に美濃国に生まれる。瑞龍僧堂の雪潭に参じ、その法嗣となる。浅草海禅寺に住し、さらに瑞龍僧堂師家となり、のち東福寺派管長となる。明治38年遷化。
     
  14. 鈴村荊叢《すずむら けいそう》:荊叢恵通。円覚寺において古月禅材の禅を伝えた最後の禅僧。明治8年遷化。
     
  15. 正続院《しょうぞくいん》:円覚寺開山仏光国師の塔所。開山堂および舎利殿を護持する他、円覚寺中興大用国師によって修行道場と定められた。
     
  16. 閉単《へいたん》:修行道場を閉鎖すること。また道場を開くことを「開単」という。
     
  17. 仏光国師《ぶっこうこくし》:無学祖元《むがくそげん》。中国南宋時代の禅僧。北条時宗が、建長寺の住持に南宋の高僧を招いたことで、推挙されて渡来した。のちに円覚寺を創建する。
     
  18. 大用国師《だいゆうこくし》:誠拙周樗《せいせつ しゅうちょ》。延享2年、予州宇和島に生まれる。月船に参じ、その法を嗣ぐ。円覚寺に住して退廃の気風を一新し同寺中興の祖となる。文政3年遷化。
     
  19. 月船禅慧《げっせん ぜんね》:元禄15年、陸奥田村郡に生まれる。三春の高乾院に住したのち、横浜永田の東輝庵に移った。誠拙ら多くの禅匠を育てた。天明元年遷化。
     
  20. 古月禅材《こげつ ぜんざい》:寛文7年、日向国那珂郡に生まれる。大分多福寺の賢巌禅悦の法を嗣ぎ、多くの僧衆を指導する。宝暦元年遷化。
     
  21. 儀山善来《ぎさん ぜんらい》:享和2年 若狭国に生まれる。曹源寺の太元孜元に就いて参禅。太元禅師の後を継ぎ曹源寺に住した。他方、南宗寺、大徳寺に僧堂を開いた。
     
  22. 白隠禅《はくいんぜん》:臨済宗中興の祖である白隠慧鶴《はくいんえかく》の法系で実践される禅。白隠およびその門弟によって体系化された公案を用いて修行する。
     
  23. 塔頭《たっちゅう》:住職を務めた高僧の墓所を護るために、寺院の中に別個に建てられた小院。
     
  24. 正伝庵《しょうでんいん》:円覚寺第二十四世、明岩正因の塔所。
     
  25. 遠諱《おんき》:祖師の遺徳をしのび、示寂後長い時間を経て営まれる法要。50年ごとに執り行われることが多い。

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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