映画『ミスト』の結末について考える

亀山 博一
2021/8/1

薬売りの老人が、夜な夜な店先の壺にヒョイッと飛び込む。その小さな壺の中には広大無辺な別世界が広がり、甘美にして悠久なる時が流れていたという。中国漢王朝時代の『後漢書』に記された「壺中天(こちゅうてん)」という不思議な話。

実を言えばこの私も、夜更けに魔法の壺に飛び込んでは、至福の別世界で時を忘れるのである。


・・・というわけで、ホラーとSFとロックをこよなく愛するお坊さんが、映画や小説や音楽やゲームについて感じたあれこれを暑苦しい筆致で書き綴る不定期コラム、『壺の中から』(連載2回目にして早くもタイトル変更!)。

今回は、観る者の心に深い傷跡を残す『ミスト』の結末について考察します。ストーリーの核心に触れていますので、まだ観てない人は読まないでくださいね!


給油するたびに思い出す

セルフスタンドでガソリンを入れる時、給油口ギリギリまで給油するのを、どうしてもやめられない。

満タンで自動ストップしてからも、給油口に溢れる寸前までチマチマ注ぎ足してしまう。家内からは「危ないからやめて!」と叱られるのだが、やっぱりやめられない。

実は、私がこうなってしまったのは「胸糞ムービー番長(*1)」として名高いホラー映画、『ミスト』(2007)のせいだ。

スティーブン・キングの傑作中編『霧』(*2)をフランク・ダラボン監督(*3)が映画化。最近はNetflixでドラマ化(*4)もされているらしい(観てないけど)。

さて、『ミスト』といえば、やはりあの問題のラストである。今回は、この作品の結末について考察してみたい。

公開からかなり年数が経過しているため、前回の『テネット』以上に語られ尽くしている本作であるが、私は世間で言われているようにこの結末を「胸糞悪い」とは思わない。そのような見方に異議を唱えるのが本稿の目的である。

【 注意!:これよりストーリーや結末に関する重要なネタバレがあります 】

ストーリーのおさらい

平和な田舎町に突如発生した異常な「霧」。霧の奥から来襲して人間を食い散らかす正体不明のキモい怪物軍団(クモ型、触手型、カマキリ型など種類豊富)。

たまたまスーパーマーケットに居合わせた人々が店内に閉じ込められ、籠城することになる。閉鎖された空間で「人間 VS 怪物」そして「人間 VS 人間」の、胃が痛くなるような攻防戦が繰り広げられる。

主人公デビッドと女教師アマンダは、カルト的指導者(どこにでもいそうな宗教狂いの孤独なオバチャンなのが怖い)に扇動された人々によって生け贄にされそうになったデビッドの息子ビリーを命がけで守り抜き、ふたりの老人と共に車で脱出することに成功する。

しかし、どこまでも続く霧の中で彼らが目の当たりにしたのは、超キモくて超巨大な、クトゥルフ的怪物が跋扈する壮絶な終末世界であった。

やがて、5人を乗せた車はガス欠に(←これ)。

予備の燃料も食料もない。車に迫り来る怪物たちの咆哮。デビッドの手に残されたのはコルト.38ディテクティブ・スペシャルと4発の銃弾だけ。

「できる限りのことはやった。仕方がない」と、静かにデビッドを見つめる車内の人々。少年ビリーはアマンダに抱かれて眠っている。「自分のことは自分で何とかする」と言って、彼は4人を撃つ。

しかし、独り残されたデビッドの前に現れたのは怪物ではなく、戦車と戦闘ヘリと重武装した兵士の大部隊だった。軍隊に救助された人々が彼の前を通り過ぎる。人類の反撃によって怪物軍団は駆逐されてゆくのだった。

錯乱し、崩折れるデビッド。暗転。

・・・この駄文を書くため、Amazonプライムで久し振りに何度目かの鑑賞。古典的雰囲気を纏う正統派ホラーとしても、極限状態の人間ドラマとしても、抜群の歯応え。そして、何度観てもはらわたをえぐられるような、強烈なエンディング。

この非凡なシークエンスによって、本作は(さまざまな意味で)映画ファンに語り継がれる伝説となった。キングの原作にない結末(*5)を付け加えたダラボン監督と、この脚本を受け容れてゴーサインを出したスタジオは、すごい決断をしたものだと思う(*6)。

結末をめぐる否定的/感情的批判

「人々を破滅に導くカルト指導者は、カーモディ夫人ではなく主人公だった!」
「主人公に従った登場人物はみんな死んだ。間違った判断ばかりの主人公が最悪」
「この映画の真のテーマは”アンチヒロイズム”。自信過剰なヒーローに対する警告だ」
「なぜあともう少し待てなかったの?自殺だけは避けるべきだったのでは」
「あまりにひどすぎて笑える。これじゃまるでコメディ映画だ」

『ミスト』には、公開当時からこんな感じの批判的レビューが多く寄せられた。確かに、後腐れのないスリルや気軽なエンターテインメントを求めて劇場に足を運んだお客さんにすれば、スカッとすることも「全米が泣いた」的なカタルシスを味わうこともできない結末は「最悪!」「不快!」と断じられても仕方ないのかもしれない。

何と言っても、車内での決断→軍隊出現の絶妙な「間の悪さ」は、あまりにも衝撃的だ。このコントのオチのようなオフビートかつシュールな展開の破壊力は相当なもの。主人公に感情移入して共に修羅場をくぐり抜けてきた観客を、最後の最後で奈落に突き落とすようなものだ。否定的な意見が圧倒的に多いのもよくわかる。

しかし、である。

だからと言って主人公デビッドを愚か者扱いしたり、作品全体を通して彼が取った行動まで全否定するような意見に対して、筆者は強い違和感を覚える。

「なぜこのような結末に至ったのか」については、作品全体を俯瞰しなければ評価できない。そこには、物議を醸すのを承知の上でこのエンディングを付け加えた、ヒューマニストで職人堅気な映画人フランク・ダラボンの、強い思いが込められているに違いないのだ。

残された4発の銃弾

まず、はっきりさせておきたいことがある。全ての希望が潰えた(と思われた)状況の中、車内の人々が合意の上で死を選択したのは、ただ単に絶望に負けて生きることを放棄したからではない。

手元に残された、たった4発の銃弾。それは、彼らが自身の意志と尊厳を貫くための最後の手段であった。

僕を怪物に殺させないで」と懇願する子供と一緒にキモい怪物に八つ裂きにされてむさぼり食われるより、彼らは「自らの意志」で死ぬことを選んだのである。

そんなギリギリの決断を、誰が批判できるだろう?もし全く同じ状況に置かれたら、あなたならどうするだろう。筆者はどうするかって?言わずもがな、である。

こう書くと「自殺を美化するな!」と炎上しそうなので念を押しておくが、私は決して自殺を賛美しているわけではない。それは普通に全文を読んで頂ければご理解頂けよう。

ただ、これだけは言いたい。自ら死を選んだ人々に対して、生きている者の都合や価値観だけで軽々しく批評するのは愚かな行為だ。くれぐれも慎むべきである(*7)。

自殺は、本人にとっても、残された者にとっても、つらくて悲しくて残酷でやるせないものだが、そこには、罪悪も過失もない。弱さや愚かさもない。あるのは、一人の人の、やむにやまれぬ決断と、胸詰まる永遠の別れだけなのである。

佐々木閑 著『日々是修行』第40話『自殺は悪ではない』(ちくま新書)

もう「胸糞」と呼ぶのはやめよう

さて、ここからが本題である。前述した通り筆者は世間で言われているようにこの映画が「胸糞ムービー」とは思わない

私には主人公の奮闘や決断をあざ笑うことなど、とてもできない。いちいち説明するのが面倒なので「ああミスト?はいはい胸糞でしたね〜」と適当に話を合わせていたが、内心は別の思いを抱いていた。

どれだけ力を尽くしても、思い通りにはならない。やることが全部裏目に出る。挙げ句の果てに行き詰まる。そして、正しいと思った判断が実は致命的なミス。これはまさに、我々が生きている現実の世界そのものではないか。この作品を観ている、筆者やあなたの人生そのものではないだろうか。

デビッドは我が子の命を守りたい一心で、未知の怪物や怪物化した人間逹を相手に死力を尽くして闘う。彼は怯え、苦悩しながらも、その時その時にベストと信じる(結果的にベストかどうかは別として)決断を積み重ねただけである。その苦渋に満ちた愚直な姿を誰が笑えるだろう?

たとえ孤立しても、満身創痍でも、希望を失いそうになっても、時には悲惨なミスを犯したとしても、立ち止まることはできない。後戻りもできない。私たちは前に進むしかない。それが「生きる」ということではないか。

車で脱出するデビッドたちを店内から見送る人々の、空疎な表情を見よ。恐怖と不安に駆られて根拠のない妄言に踊らされ、自分で決断したり行動したりする意志を自ら放棄し、安易に集団で群れることを選択した者たちの哀れな末路だ。最終的に彼らが無事に救助されたとしても、決死の覚悟で店を飛び出したデビッドたち一行を、筆者は断固として支持する。

どんなに辛く険しい道程であっても、自分の人生のハンドルは自分で握るものだ。筆者は生まれつき小心者でヘタレで何をやってもうまくいかない男だが、それでも自分を信じ、自分で考え、自分で決断して、その結果の全てを自分で引き受けて生きたいと願っている。重要な決断を他人に委ねたり、いつも誰かに尻尾を振って追従したりするのはゴメンだ。

ご承知の通り人生とは楽しいことばかりではないが、痛みも苦しみも悲しみも、全てわたしの一部分である。誰かに身代わりになってもらうことなどできない。だからこそ、私たち一人ひとりの「一回こっきり」の人生は比類無きものとなり得るのだ。

デビッドという傷付いたキャラクターは、理不尽な世界に翻弄され続ける私たち自身である。彼の姿は、間違いを犯したり絶望したりしながらも歩み続ける全ての人々の「苦」を体現しているように思えてならない。

独り生き残ったデビッドは、結果的に自らの行為の全責任を負うことになった。彼は決して他の誰かに責任転嫁することなどあるまい。彼以外の誰にも引き受けることができない「苦」と共に、これからの人生を生きていくのだろう。ラストシーンから始まるであろう彼の喪失と贖罪の物語(*8)を思うと、切なくてたまらない。

『グリーンマイル』『ショーシャンクの空に』『マジェスティック』・・・ダラボンは常にその監督作において、さまざまな重荷を背負って生きる人々の健気な姿を、かぎりなく優しい眼差しで描いている。

それはこの『ミスト』でも変わらない。この結末は、悪趣味なジョークでも観客に対する侮辱でもアンチヒロイズムでもないのだ。「胸糞ムービー」などと言う乱暴な言葉で揶揄するのはやめようではないか。

「もうひとりの主人公」と「希望」

ところで、この物語には「もうひとりの主人公」が存在する。マーケットでの籠城が始まった頃、家に残してきた幼い子供たちを救うために「出たら絶対に死ぬぞ」と制止する人々を振り切って決然と飛び出してゆく気丈な母親だ。

家に残してきた我が子を心配してパニックになりながらも、店内の男性が誰も協力してくれないとわかるや「みんな地獄に落ちて!」と吐き捨てるように言い放ち、店を出て行く。

この母親を演じるのはメリッサ・マクブライド。登場場面は短いながらも、恐怖に怯える女性の繊細さと、それを凌駕する母性の逞しさを見事に演じ切り、強い印象を残す。キングの原作には登場しない、ダラボンによるオリジナルキャラクターだ。

ラストシーンで、彼女と子供たちは軍隊に保護されていて無事だったと判明(*9)する。彼女は他人にハンドルを譲り渡すことなく、無事に子どもの命を救い、自らの手で未来を切り開いたのである。

序盤には、彼女の決断はあまりにも無謀なものとしか感じられない(それこそ「自殺行為」にしか見えない)。しかし、ラストの予想外の再登場によって、「結果は誰にもわからない。だから希望を捨てないでほしい」という、監督の隠れたメッセージ(*10)が明確になる。そう、彼女こそ映画『ミスト』に込められたダラボン監督の思いを象徴する重要なキャラクターなのだ。

この母親とデビッド、どちらが正しい判断をしたのかを安易に決め付けることはできないが、ただひとつ言えるのは「デビッドたちは希望を手放してしまった。しかし、彼女は最後まで手放さなかった」ということ。これに尽きるのではないか。みんな本当に、よくがんばった。デビッドたちは、ただ巡り合わせが悪かっただけなのだ。

どんなに絶望的な状況に置かれても、あなたは最後まで希望を手放さずにいることができるか?」

ダラボンはこの作品を通じて、私たちに問いかける。そして筆者はこのラストシーンを反芻し、何度も何度も自問自答するのである。たかがホラーと馬鹿にすることなかれ。馬鹿にするヤツに見る目がないだけなのだ。

小規模な閉鎖空間を舞台にしたホラーパニックものとして恐るべき完成度を誇るキングの中編小説に、原作には存在しない驚愕のラストシーンと隠れた重要キャラを追加することによって、「生」「希望」をめぐる重厚かつ悲劇的なドラマに昇華したダラボン監督の手腕と、洞察力に満ちた深い人間性に心から敬意を表したい。

「胸糞だ!」と思った人も、できればもう一度まっさらな気持ちで、じっくり鑑賞してみることをおすすめする。

〈 以下、映画評論家 町山智浩氏の貴重なツイート。町山氏が本人から直接聞いたというダラボン監督の思いが明らかに〉
 

さいごに

諸行は無常であり、森羅万象も人の心も常に変化し続ける。全ての希望を失ったとしても、最後まで生き抜く意志を捨てさえしなければ、やがて状況は変化する。私たちを覆っている「霧」も、いつか必ず晴れるのだ。

一寸先が闇なのか光なのかは誰にもわからない。闇の先にも必ず光があると信じ、この命を燃やし尽くして最後まで生き切る。私たちにできることはそれだけではないだろうか。

だから私は、今日も給油口ギリギリまでガソリンを流し込み、ハンドルを握る。

たとえどんな状況に置かれても、生きることをあきらめてしまわぬように。


おことわり:筆者はこのコラムの執筆によって『ミスト』の呪縛から解放され、現在は「セルフスタンドにおける満タン自動停止後の追加給油(*10)」は行っておりません。追加給油は危険な行為です。絶対におやめください。ただし、人間を捕食する未知の生物から自動車で避難する必要が生じた場合については自己判断でお願いします。


脚注

  • (1)胸糞ムービー(胸糞映画):胸がムカムカするほど忌々しく、不快な印象を残す映画のこと。他に有名なのはラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、ミヒャエル・ハネケ監督の『ファニーゲーム』など。
  • (2)『霧』:『スケルトン・クルー(1)骸骨乗組員』 (スティーヴン・キング著・矢野浩三郎訳) 扶桑社(1988)
  • (3)フランク・ダラボン:映画制作者・脚本家。本作品の他にもキング原作の『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』の映画化を手がけています。Wikipedia
  • (4)『ザ・ミスト』:1シーズンで打ち切りだそうです。ある意味、衝撃的な結末!
  • (5)キングの最高傑作のひとつと評される原作中編小説も素晴らしく、その結末は深い余韻を残します。これぞ、80年代モダンホラーの白眉。興味を持たれた方は是非読んでみて下さい。
  • (6)ダラボン監督は本当は「全編白黒」で公開したかったのですが、さすがにそれは脚下されたそうです(笑)。ちなみにコレクターズエディションのDVDには、この幻のモノクロバージョンのDVDが付属しています。古き良きB級怪奇映画のクラシックな雰囲気が絶品。なんとも言えない寂寥感が加わって、素晴らしい映像体験ができます。おすすめ。
  • (7)仏教学者の佐々木閑先生と円覚寺管長の横田南嶺老師は、仏教から見た自死についてとても重要なことを語っておられます。お釈迦様は自死について否定も肯定もされていません。それなのに、メディアで自死した方やその遺族の苦しみに追い打ちをかけるような発言をする坊さんがいるのには本当にうんざりします。
    今日のことば『自死について』横田南嶺老師(2020年10月21日)
    お寺で対談(6)『自死について』〜佐々木閑先生・横田南嶺老師(2020年11月26日)
  • (8)佐々木先生と『ミスト』について熱く語り合う機会がありましたが、その時に「この主人公を救えるのは仏教しかないでしょうね」と仰っていたのが印象に残りました。
  • (9)救助された人々を荷台に載せた軍用トラックがデビッドの目の前を通り過ぎます。トラックの荷台から、ふたりの子どもと共に彼女がデビッドを見つめています。
  • (10) 注ぎ足しは吹きこぼれや火災の原因となる危険な行為です。絶対に真似しないでください
     参考記事:セルフスタンドで自動停止後の「継ぎ足し給油」が禁止されている理由とは(MOTA)

おまけ:冒頭シーンに関するトリビア

 
エンディングについて書いたので、最後にこの作品のオープニングシーンのトリビアをマニア視点で。

デビッドの職業はイラストレーターという設定ですが、冒頭の自宅のアトリエのシーンでは、いくつかの実在する映画ポスターや本の表紙?のイラストが登場します。

これらは『スター・ウォーズ』『ブレード・ランナー』『バック・トゥ・ザ・フユーチャー』など、数多くの作品を手がけるアメリカの著名なイラストレーター、ドリュー・ストルーザン(ストラーザン)によるもの。

「懐かしい!」「見たことある!」という方も多いでしょう。筆者などはこのタッチを見ただけで、ハリウッド製ブロックバスターに興奮した少年時代への郷愁で、胸が熱くなるのです。

Drew Struzan(http://www.drewstruzan.com)
SF映画ポスターの巨匠ドリュー・ストルーザンの代表作15点
The Art of Drew Struzan:ドリュー・ストルーザン ポスターアート集

・オープニングでデビッドが描いているのは、スティーヴン・キングのライフワークであり英国幻想文学大賞を受賞した『ダーク・タワー』の主人公、ガンスリンガー(拳銃使い)のローランド。この作品公開時点では、まだ映画化されていませんでした。

スティーヴン・キング『ダーク・タワー』(角川文庫)

・正面に掛かっているのはジョン・カーペンター監督の傑作『遊星からの物体X』(1982)のポスター。カーペンターの初期の大傑作『ザ・フォッグ』は、霧の中から襲いかかる100年前の怨霊の恐怖を描くサスペンス・ホラーの金字塔。キングの作品と無関係のこのポスターが使われたのは、「霧」つながりでしょうか。

ジョン・カーペンター『遊星からの物体X』〔Blu-ray〕
ジョン・カーペンター『ザ・フォッグ』〔Blu-ray〕

・他にも牢の中の囚人たち、ピエロ、赤い風船を持った子供の絵が壁に掛けてありますが、どれもキングの小説に関係していると思われます。囚人の絵は『ショーシャンクの空に』や『グリーン・マイル』、ピエロと赤い風船を持つ子供は、キングの代表作『IT』に登場する殺人ピエロ、ペニー・ワイズ?

スティーヴン・キング:『ゴールデンボーイ – 恐怖の四季 春夏編』(新潮文庫)
〜『ショーシャンクの空に』の原作となった中編『刑務所のリタ・ヘイワース』収録
スティーヴン・キング:『グリーン・マイル』(小学館文庫)
スティーヴン・キング:『IT』(文春文庫)

・なお、画面左側のイーゼルに立ててある絵は、ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』みたい。この作品とキング作品やダラボン監督との関係は不明。ご存知の方は教えて頂ければ幸いです。

ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』〔Blu-ray〕

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