わからぬままで〜『テネット』レビュー

亀山 博一
2021/4/8

「壺中天(こちゅうてん)」をご存知だろうか。

薬売りの老人が、夜な夜な店先の壺にヒョイッと飛び込む。その小さな壺の中には広大無辺な別世界が広がり、甘美にして悠久なる時が流れていたという。中国漢王朝時代の『後漢書』に記された、不思議なお話。

実を言えばこの私も、夜更けに魔法の壺に飛び込んでは、至福の別世界で時を忘れるのである。

今宵、私が飛び込むのはどんな世界だろう。
生ける死者達が跋扈する荒涼とした終末世界か、
巨大なスターシップが航行する未知なる外宇宙か、
はたまた、テロリストと特殊部隊が激戦を繰り広げる熱帯雨林か。

私はその世界で何を体験し、何を感じるのだろう。その世界で何を考え、どんな決断をするのだろう。壺の中の世界が現実を浸食したり、壺の中でまったりしているうちに抜け出せなくなることだって、あるかもしれない。

・・・というわけで、ホラーとSFとロックをこよなく愛するお坊さんが、映画や小説や音楽やゲームについて感じたことを壺の中から書き綴る不定期コラム。素人の駄文ですが、よろしくどうぞ。


さて、第1回は、昨年公開されて散々語り尽くされた感も否めないが、クリストファー・ノーラン監督最新作『テネット』のレビュー。ネタバレはありませんのでご安心を。

まず、キャストが豪華。英国の至宝ケネス・ブラナーのドスの利いた怪演、ヒロインなのに他の登場人物の誰よりも背が高いエリザベス・デビッキのおへそ周辺の美しさ、ロバート・パティンソンのセクシーな英国なまり、常連組サー・マイケル・ケインのわりとどうでもいい感じの扱い、そして主人公なのに全然印象に残らないJ.D.ワシントン(笑)。「名前のない主人公」を演じる彼があえて「印象に残らない」ように描かれているのは、ノーランによって慎重に計算し尽くされたきわめて高度な配役/演出なのであろう(おそらく)。

映像だけでなく音響も超一流のノーラン作品だが、いつもよりデジタル寄りのスコアも勢いに満ちている(ルドウィグ・ゴランソンという人らしい)。特に印象的なのが、冒頭のオペラハウス襲撃シーン。演奏前のオーケストラのチューニングから始まり(この映画自体が多くの要素が複雑に絡まり合うシンフォニックな作品であることの暗示か?)、不穏な重低音の導入から一転、デジタルビートが重なった瞬間に炸裂する切迫感と高揚感に、脳天が痺れそうになる。

トラヴィス・スコットというすごいヒップホップの人がノーランと共に仕上げたというvery fire(激アツ)なエンディング曲もかっこいい。ちなみにこの低音ドボボーンなヒップホップは「トラップ」というジャンルらしい。おじさんは知らなかった。


鑑賞後の印象をひとことで言えば、「目の前で展開されている場面に理解が追いつかず、頭の中は?でいっぱいなのに、観ていて超絶たのしい!」という、前代未聞の映像体験であった。あまりの難解さに公開時は大騒ぎになったが、これはもう『メメント』や『インセプション』や『インターステラー』どころではない。

二回目の鑑賞で細部の仕掛けや物語の時系列が明確になり、ようやく全容が掴めてきた気がするが、それでもまだまだ謎が多い。緻密に考え抜かれた設定(『インターステラー』同様、ノーベル物理学賞受賞の理論物理学者キップ・ソーンが参加)、気の遠くなるような複雑さ、巧妙な伏線、ミスリーディングやダブルミーニングの嵐。ネット上の考察レビューや解説記事が多いのも当然だろう。

そんな作品ゆえ、「わけがわからんから楽しめない」というレビューをネット上で散見するが、そんなところに引っかかって目の前の作品世界に没入できないのは、あまりにも残念である。クレマンス・ポエジー演ずる劇中の科学者が言うように「理解しようとするのではなく、感じろ」が、この作品の正しい鑑賞法に違いない。そう、“Don’t think. Feel.” である。じっくり謎解きをするのは、家に帰ってからでも遅くはない。

派手なドンパチと息を飲むほど壮大なロケーションと美しいファッションと深味のある演技に彩られた、最上級の娯楽映画。せっかくだから、上映中は「うへぇー」とか言いながら、ドヤ顔のノーラン監督に全てをまかせて、無心に楽しもうではないか。

そもそも現実の世界も人生も、そして自分自身も、謎だらけ。
だから、わからぬことは、わからぬままでよろしい。(by執行草舟)
「今」を味わわなければ、もったいないでしょ。


ところで、時間を客観的に「実在するもの」としてきわめてメカニカルかつ緻密に描き切ったこの作品には、高度に研ぎ澄まされた西洋的知性特有の傲慢さ、ある種の暴力性や野蛮さのようなものを感じる。

それが強力な起爆剤として重厚な作品世界を駆動する原動力であり、この作品の面白さの核となっているのは確かではあるが、なんとなく居心地の悪さを感じてしまうのは、私だけだろうか。

『荘子斉物論』の有名な「胡蝶の夢」のエピソードや仏教の唯識思想を例に挙げるまでもなく、東洋では「この世界は我々の心が生み出した夢であり、時間すら主観的なもの」と考える。客観的に観察したり操作したり改変したりできるような、物質の如き時間の概念は、やはり西洋の由来であろう。

南禅寺の第一世、大明国師は、このような偈を残している。

 

来たるに処住なく
去るに方処なし
畢竟如何 喝
当処を離れず

過去も未来もない。昨日も明日も存在しない。
究極のところは「今、ここ」なのだ。

禅的な見方をすれば、この作品の根幹など(「アルゴリズム」など起動しなくとも)「喝!」の一声で跡形もなく吹き飛んでしまうのかもしれない。

劇場からの帰り、私はそんなことを思いながら車を走らせた。


まとめ:ゴージャスで優美な古典的スパイアクションのフォーマットを踏襲しつつも、それを内側から派手に破壊しながら猛スピードで爆走し、人類が未だ目にしたことのない驚天動地のクライマックスに突入する世紀の問題作。まさに、スパイ映画とハードコア時間SFの「挟撃作戦」にノックアウトされた気分。最高です。


映画『TENET テネット』オフィシャルサイト
https://wwws.warnerbros.co.jp/tenetmovie/index.html

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