西村古珠師講演『日日是好日』-2

西村 古珠
2021/4/22

編集部より:この講演録は、東日本大震災直後に行われた故西村古珠和尚の講演(平成23年4月18日 小田原市 昌福院様本堂にて)を元に寶林寺様で制作された冊子の内容を、故人のご夫人であります西村洋子様のご承諾を得て、転載させて頂いたものです。(全3回)
 
西村古珠和尚について→


その1からの続き)
 
よく「防災対策が大切だ」という話になるのですけれど、「対策」ということでは、いくら積み重ねていったところで、必ず限界というものがありますね。

5メートルの波が来ても大丈夫なように防波堤をつくる。いつかは、それを越える大波が来るかもしれない。それでは、10メートルの波が来ても大丈夫なように対策をたてる。そしたら、15メートルの波が来るかもしれない。じゃあ、20メートルにしたら、30メートルにしたら。

100年に一度の災害に備える。じゃあ200年に一度の災害がきたらどうなるか。1000年に一度がきたらどうなる。

何らかの対策をする様なことをいくら積み重ねても、「これで万全だ」ということにはならない。絶対にならない。必ず限界がありいつも不安がつきまとう。対策という様なことをいくら積み重ねても「絶対に安心」には、絶対にならないのですね。

じゃあどうしたら良いか。ここで、仏教に限らず「宗教」と言って良いのかもしれませんが、その存在価値があるのですね。

対策の様なもので、今までできなかった様な事が、何でもできるようになった。携帯電話にしろ、カーナビゲーションにしろ、私たちが子どもの頃のSF映画の世界の様なことが、今では普通に簡単に手に入る時代になっている。ありがたさや便利さ。これはこれで、大事なことであります。

しかし、そういうものがいくら発達したところで、人間が生老病死の苦しみ、今日生きてゆく苦しみから本当に絶対に安心できるということにはならない。「じゃあどうしたら良いか」ということになるのですね。

「未来を信じて夢を持つ」と言いますけれども、大震災の前でも、みんな未来を信じて夢を持っていた。そしたら、大震災がきた。どうしたら未来が信じられるのか、本当に信じられるのか。また明日、明後日、もっと大きな震災がくるかもしれない。じゃあどうしたら良いのか。

そこで今日は、「日日是好日」という言葉を、一緒に考えて参りたいと思います。


今から千年ぐらい前の中国の唐の時代に、雲門和尚という名僧がおられました。

ある日の説法で、お弟子さん達が沢山集まって教えを受けている時、雲門和尚が「今日以前のことはお前達に問わない。今日から後、お前達がどういう風にお前達の人生を生きていくか、自分の人生を歩んでいくか、儂の前に来て一句言ってみろ。自分の人生そのものを、一言で私の前で言えるものがいたら、出てきて言ってみなさい」そうおっしゃったのですね。

そうしましたら、お弟子さんが何十人、何百人いたか分かりませんが、残念ながら誰も言えなかった。そこで雲門和尚が、ええいこう言うんじゃと、模範解答をおっしゃった。

「日日是好日」

よく、床の間の掛け軸でご覧になることもあるかと思いますが、「日日是好日」とおっしゃった。「ひびこれこうじつ」と読んで貰っても良いのですが、わたしたち禅門では、「にちにちこれこうにち」と教えられています。じゃあどうしたら、そう思えるか。


何年か前になりますが、赤塚不二夫さんという漫画家がお亡くなりになりました。その時に、タモリさんが弔辞を読まれた。

私は何気なくニュースを見ていた時に、途中から「これはすごいことを言っているな!」とビックリしたのですね。本当にタモリさんがお考えになったのかはわかりませんが、その中の一節をメモしてきましたので、読ませていただきます。
 

あなたの考えは、すべての出来事、存在を、あるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい陰(いん)の世界から解放され、軽やかになり、
また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が、異様に明るく感じられます。
この考えを、あなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち、「これでいいのだ」と。

こういう一節がありました。まさに、雲門和尚が言っている「日日是好日」が、ここに見事に言い表されていると思うのであります。

時間が前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられる。これを、われわれの専門用語で「即今当所」と申します。

即今は「いま」、当所は「ここ」。「今、ここ」しかない。
昨日も明日もない。今日しかないのだ。

皆さんがオギャーと生まれた時、自分が男であるとか女であるとか、日本に生まれようとか、アメリカに生まれようとか、平成に生まれようとか明治が良いか江戸時代が良いかとか、そんなことを考えながら生まれて来た人は一人もいないと思います。どの家に生まれてこようかとか、未来を信じて夢を持って生まれてくる子なんていますか。まして、もっと言えば自分が今ここに生まれてきたことさえも知らずに、ただオギャーと、生まれてきた。

これが、「即今当処」。今ここに生まれて来たのですが、時間に前後関係がないのです。

自分が今ここに生まれて来たことさえ知らない、つまりそれは「永遠のいま、無限のここ」と言っても良い。これが仏教の醍醐味と申しますか、今ここがそのままで、「日日」が「是好日」にならないと、おもしろくない。

じゃあどうすればそうなるか、その自覚をどうやって手に入れるか。
ここでどうしても、「修行」ということが必要になってくるのですね。

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