世界は命にみちている!

平兮 明鏡
2021/4/9

みなさんは、目に見えないものが存在すると思いますか?

目に見えないもの、モノでないものは、存在しないと考えるかもしれません。それでは「命」はどうでしょうか?命が存在しないと考える人はいないでしょう。しかし、命は間違いなく目には見えないものです。

現代は何かと物質的にものを見て、何かにつけて説明出来なければ納得されない世の中です。しかし、実はそのようなものの見方が私たちを迷わせることになっているのかもしれません。


掬水月在手
水を掬《きく》すれば月、手に在り

このような禅の言葉があります。もともとは于良史《うりょうし》の漢詩「春山夜月(全唐詩)」が出典ですが、禅の書籍「虚堂録《きどうろく》」にも引用されています。

「水を掬すれば」とは、水をすくうこと。「月、手にあり」とは、そのすくった手のひらの水の中に月が浮かんでいる、ということです。

幻想的で美しいイメージの言葉ですが、しかし、ここで言う月とは、単に空に浮かぶ月のことではなく、目には見えない真実のことを言っています。

月を手にすることは、常識的にはあり得ないことですが、水をすくい上げれば、その中に浮かべることも出来ます。月と同じように、真実も常に私たちの身近にあります。しかし、人は目に見えるもののみにとらわれてしまって、それに気付くことができないのです。


新聞に「おばあちゃんの目」という投稿記事がありました。
 

私が幼かった頃「この鉛筆、もうちびたけ(すり減ったから)、使えん」って捨てようとしたら「そんなに粗末にしたらいけんよ。目がつぶれるよ。ばあちゃんに持っておいで」と言ったね。

私が「どうすると?なんで目がつぶれると?」って聞くと、「何にでも命があると。この鉛筆にもあると。ちびたけっち捨てたら悲しむよ。ちびて使いにくいなら紙を巻いて長くしたら使いやすくなるやろ」と、長くした鉛筆を渡しながらこう話してくれたね。

「この鉛筆ももとは木やろ。切られんかったらどんだけ大きい木になったやろうね。切られとうなかったろうね。けど、切られて鉛筆になってくれたおかげで字も絵もかけるね。大木になれんかった木の命が鉛筆の命になったんやけ、大切に使わせてもらわなね。目がつぶれるいうんは、何でも粗末にしよったら、命が見えんくなるっちこと。命が見えんっちことは本当のことが見えんくなるっちことよ。何でも粗末にしよったら、自分も粗末になるっちことよ」って。

この方は、はじめは「命」が見えていませんでした。しかし、おばあちゃんの言葉で、失われた木の命に気づくことができました。そして、その瞬間、鉛筆の中にも確かに命が宿ったのです。

おばあちゃんの「粗末にしたら、命が見えなくなる。命が見えなくなると、本当のことが見えなくなる」という言葉は、私たち現代人の心に、ことさらに響くのではないでしょうか。

現代の物質社会では、人は何かにつけて理由を求めて、目に見える答えがないと気がすみません。しかし、実は目に見えないところにこそ真実があります。それを、自らの手ですくい上げることができれば、世界は命にみちていると知ることができるのです。

「掬水月在手」

あらゆる命は、いつでもどこにでも存在していて、私たちのすぐそばにあります。あとは、私たちが月をすくい上げるかのように、本当の姿を見つけ出すだけなのです。

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