一緒に転び、一緒に起き上がる
人を助けるとは、どういうことでしょうか?
例えば、困っている人や苦しんでいる人に出会ったとき、人の心は大きく動きます。私たちはそのような時、「何とかして力になってあげたい、助けてあげたい」という気持ちになるのではないでしょうか。
そのような心を「思いやり」と一般的にいいますが、仏教では「慈悲」という言葉で表します。似たような意味ですが、これは単に相手を思いやる、ということではありません。慈悲は、他人の痛みを自分のことのように感じる心なのです。他人の痛みを引き受けることはできませんが、その痛む気持ちに飛び込み、相手と一緒になって苦しむのです。
では、禅的な慈悲のはたらきとは、どういうものでしょうか。中国唐代の『龐居士語録《ほうこじごろく》』という書物に、興味深い場面が登場します。
龐居士《ほうこじ》は、湖北省の生まれで、石頭《せきとう》禅師と馬祖《ばそ》禅師の元で厳しい修行を積みましたが、出家することはなく、俗人として生涯を貫きました。その卓越した禅の境涯は後世に語り継がれ、『龐居士語録』としてまとめられました。娘の霊照《りんしょう》もまた、父と同様に素晴らしい禅の境地を得ていました。
その居士と娘が、ざるを売りに出かけた時の話です。ふたりはその途中にある橋を渡っていたのですが、そこで居士は転んでしまいました。
娘は助けようと父のそばに駆け寄りますが、彼女はなんと、その場で自分も転んでみせたのです。その姿を見た居士は、「いったい何をしているのだ」と尋ねます。すると娘は、「お父さんが転んだから助けているのよ」と答えたということです。
この親子のやりとりは、いわゆる実際の「人助け」の場面ではありません。悟りに達した者の行動に表れる禅の機微を示したものであり、一般論としての慈悲にそのまま例えられるものではありません。しかし、その上で筆者は「苦しむ人を目の前にした時にどうするか」ということを考える一例として、あえて紹介することにしました。
それではなぜ、霊照は自ら転んだのでしょうか。そして、その行動で、どうして父を助けることができるのでしょうか。霊照の行動は的外れのようにも見えますが、禅的に見れば、実はそうではないのです。
誰かが倒れたのを見たら、普通なら駆け寄って起こしてあげるのでしょう。一方、霊照は倒れた父が味わった苦しみさえも救おうとしたのです。
倒れた龐居士には、老いを感じる辛さや、情けなさもあったのかもしれません。そういった苦しみはその人自身のもので、突き詰めて言えば、それは本人しか解決しようがありません。それを他人が救おうとするなら、自らも同じ苦しみを味わい、苦しむ者同士として共に解決の道を探っていくしかないのです。
つまり、父と同じ苦しみを共に味わうために、霊照は自ら転んだのです。その後ふたりは、手を取り合いながら、それぞれ自らの力で立ち上がったのではないでしょうか。霊照は、伴走者としての役割を果たすことで、父を助けたのです。
父の横で自ら転ぶという不自然にも思えるこの行動は、霊照の慈悲による助け方だったのです。
アメリカでニュースになったある出来事です。
高速道路脇で車のタイヤを交換していた女性が、作業の最中に大切な婚約指輪を紛失してしまいました。しかし、女性がそのことに気付いたのは、帰宅した後のことでした。ひとりで高速道路上を探すのは無理なので、すぐさま警察に指輪を紛失したことを届出しました。
届出を受けた警察官は、運転手の女性と一緒に現場に指輪を探しに行きましたが、見つけることはできませんでした。
しかし、その警察官は、なんと翌日の自由な時間に、ひとりで現場に戻って、指輪を探しました。そしてついに、彼は指輪を見つけ出すことができたのです。
指輪が戻ってきた女性は、警察官と一緒に笑顔で記念写真を撮って、ふたりで喜び合ったということです。
この警察官は、なぜそこまでして指輪を探し続けたのでしょうか。
普通なら、他人の指輪のためだけに、高速道路に這いつくばって探し続けるようなことはしないでしょう。
しかし、そんなことができたのは、婚約指輪をなくした女性の苦しみを、この警察官が自分のことのように感じたからではないでしょうか。彼には、生涯でたったひとつの大切な記念である婚約指輪をなくすという、女性の苦しい気持ちが痛いほど分かったのでしょう。
だから、指輪が見つかった時は自分のことのように喜んだのに違いありません。指輪が見つかったことによって、女性が救われたのはもちろんのこと、この警察官もまた、同じように救われたのです。
苦しむ人の気持ちになり、一緒に解決していく。その姿は、先ほどご紹介した霊照の姿と重なるところがあるのではないでしょうか。
慈悲とは、相手の苦しみを自分のことのように分かち合うこと。難しく感じるかもしれませんが、慈悲は特別な力ではありません。人を助けたい、誰かの役に立ちたいという、相手を思いやる素直な気持ちが、そのまま慈悲の心につながるのです。