「練習は嘘をつかない」は本当か?

蘆田 太玄
2022/3/1

学生の部活動やスポーツの世界などでよく「練習は嘘をつかない」だとか「努力は嘘をつかない」という言葉を耳にします。練習や努力の大切さを説く標語としてよく用いられる言葉ですが、同時にこの標語に対する否定的な意見もよく耳にするのは興味深いところです。つまり、どんなに努力しても報われないこともある、という意見です。

2月に北京で開催された冬季オリンピックにて、男子フィギュアスケート日本代表の羽生結弦選手が記録上、誰も成功したことのない4回転アクセルジャンプに挑戦し、話題となりました。結果は4位となり、競技後のインタビューにて、「一生懸命頑張りました。正直、これ以上ないくらい頑張ったと思います。報われない努力だったかもしれないですけど」と声を震わせながら語り、反響が相次ぎました。

「惜しくも表彰台を逃した」「惜しくもオリンピック三連覇を逃した」などといった結果だけを表面的に見れば「努力は報われなかった」と言えるのかもしれませんが、やはりその困難に挑戦し続けた姿には結果を超えた何かが存在するように思えてなりません。

努力や練習というのは多くの場合、何か目標や目的があってするものです。つまり、この「練習が嘘をつくか論争」は過去に一生懸命に積み重ねた努力が未来で結果を生んだか生まなかったかというところに一番の論点があると思います。しかし実は、禅の世界ではそもそも結果がどうであったかということを問題としていません。そういった過去や未来に執着せず、淡々と今やるべきことを積み重ねていくところに禅の教えの価値や魅力があります。


東福寺の開山である聖一国師の言葉に次のようなものがあります。

一時坐禅すれば一時の仏なり。
一日坐禅すれば一日の仏なり。
一生坐禅すれば一生の仏なり。
かくの如く信用するは、大機根、大法器の人なり。


『聖一国師仮名法語』より

(訳)
一時坐禅すれば一時の仏である、一日坐禅すれば一日の仏である、一生坐禅すれば一生の仏である。そのように心から信じる者が大機根、大法器の人(仏法を受けるに足る器量を持った者)である。


この言葉は「修行することに利得はあるのだろうか?」という疑問に対して聖一国師が答えたものです。損得を気にするというのは簡単に言えば迷いです。ここでは修行すること自体の善し悪しを問題とするのではなく、修行している自分自身のありようを問題としています。「これまでやってきたことは間違いだったのか?」と過去を振り返ってみたり「この修行を続けていくことに意味はあるのだろうか?」などと未来を心配したりすることによって迷いが差し挟まることが一番の問題となります。

過去、未来に目もくれず、今この一瞬を積み重ねていくという心持ちが自然に備わった状態で修行をしている時にはこういった迷いが差し挟まる隙が存在しません。この点において一時、一日、一生というのは何か時間的な差がある訳ではなく、決して戻って来ることのない今の積み重ねという同じ事を意味しているというのが興味深いところです。


「修行することに利得はありますか」という質問をしている時点で「悟りのための修行」という因果関係が生じています。この点において修行というものが成果に執着する練習や努力と同次元に語られており、聖一国師はこの誤解を正そうとしたように感じられます。

「練習は嘘をつくか論争」でも同じ事が言えるのではないでしょうか。聖一国師が示したように、練習が嘘をつくかどうかを論じている時点で実は既に論点がズレているのです。練習や努力が成果に結びつくかどうかではなく、成果を超えた生き方がそこにある、という新しい視点を禅の教えは提示します。一心に坐禅をしている時点ですでに仏であるのと同じように、一心に練習、努力したとき、すでにそこには成果を超えたスポーツマンの姿があるのです。

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