凧の如く生きる
「烏賊幟《いかのぼり》」ってご存知でしょうか?
いわゆる「凧《たこ》」のことです。江戸時代までは、凧揚げは「烏賊幟」と呼ばれていました。
しかし、人々は烏賊幟に熱中するあまりケンカの原因となったり、大名行列に烏賊を落としてしまうなど、問題が絶えませんでした。それでやむなく「人通りの少ないお正月なら揚げてもよい」という許可が下ったということです。そんな経緯を経て、新年に健康を祈る遊びとして定着してきたそうです。
今では凧を揚げる人は少なくなってきましたが、やはり、日本人の心の風景として凧揚げというのは引き継がれていると思います。
江戸時代の白隠禅師《はくいんぜんじ》の禅画には、その凧揚げを題材としたものがあります。
「壽(寿)」という字を凧に見立て、その凧を童《わらべ》たちが空に揚げる姿を描いたその一幅には、このような言葉も添えられています。
うぬがままにやらぬが
烏賊の命かな 白隠禅師
(「うぬがままに」自分の思うままにの意味)
凧を揚げるときは、なくてはならないのは風です。
その風は、凧にとっては決して思い通りではないことがあります。
でも、どんな風でも、凧は受ける。
凧が風をいちいち選り好みしていたら、空中にとどまることはできません。
気に入らない風が来たら、その都度、地面に降りなければならないことになります。
白隠禅師の言葉にあるように、どんな風でも凧は受けていることが、凧が揚がっている命脈なのです。
それと同じく、凧に書かれた「寿」という字。
寿命という言葉があるように、「寿」は人が生きる命そのものです。
人が生きるということも、凧が揚がることと同じだということを白隠禅師は教えてくれています。
加えて、「うぬがままにやらぬが(自分の思うままにやらないのが)~」という言葉には、私たちの命というのは私たちだけのものではない、という生き方の規範を示してくれているようにも思います。
ということは、私たちの人生における悲しみも、背負う孤独も、楽しみも、抱く憧れも、私たち自身だけのものではないということです。
凧が風をいちいち選り好みしていたら、空中にとどまることができないように、私たちも自分の持つ感情を自分のものだけにしていていると、逆に自分を苦しめることになります。
現代人のもつ苦しみの多くは、そういう個性に対する強い執着に端を発しているように感じます。
正月の青空に自由に舞い上がる凧。
その姿は、実は白隠禅師の教えに導かれ、命のあり方に気付いた私たちなのかもしれません。