主人公の涙~自分自身と向き合う

染川 龍船
2021/12/15

私たちを取り巻く現代社会には膨大な情報があふれ、しかも常にものすごいスピードで変化していきます。

そんな日々の暮らしの中で、他人の意見に惑わされたり、自分がどうすれば良いかわからなくなって立ち往生したり、挙げ句の果てに自分自身をごまかしてしまったり。誰もが自分を見失うまいと必死です。「自分らしく生きたい」と願いつつも、なかなか苦労が多いものです。


ところで、禅には「主人公」という言葉があります。現代では映画や小説等、物語の中心となる人物を意味しますが、もともと禅の言葉なのです。

中国唐代に瑞巌師彦《ずいがんしげん》 (*1) という禅僧がいました。この瑞巌和尚は、自分に向かって常に「おい、主人公!」と呼びかけ、自分で「ハイ!」と返事をしていました。こんな具合です。(*2)

「はっきり目を覚ませよ」
「ハイ、覚ましています」
「騙されるなよ」
「ハイ、大丈夫」


「何それ?」と不思議に思われるかも知れませんが、瑞巌和尚が自らに問いかけていたこの「主人公」、実はどんな人の中にも必ず存在します。

禅における「主人公」とは、誰もが生まれながらに等しくそなえている、はからいのない純粋無垢で清浄な心の本体、「真の自己」のことなのです。

そのような「真の自己」は、時には人を思いやる慈悲心となり、時には何が正しいかを判断できる智慧となったりして、自由自在にはたらきます。そんな素晴らしい「主人公」が、私たちひとりひとりの中に生き生きと躍動しているのです。

この真実の自己を、禅では「仏心」「仏性」「清浄心」など多くの言葉であらわします。坐禅や日常の生活を通じて、自らにそなわった「真の自己」を自覚し、それを自在にはたらかせていくことが、禅の修行なのです。

私たちは普段の生活の中で、つい周囲の環境に流されたり、他人の言動に惑わされたり、さらに厄介なことに自分自身をごまかしたりして、この「主人公」を見失ってしまいます。

瑞巌和尚は、自分に「周りに流されるなよ」「他人にまどわされるなよ」「自分自身をごまかすなよ」と呼びかけ、自分で「はい!」と返事をしていました。自己本来の清浄な心を見失うことがないよう、常に自らの心と向き合っていたのです。


うちのキッチンには、子供がガスコンロに近づかない様に、小さな柵を設置しています。ある夕暮れ時、長男(4才)と、まだ言葉を話せないヨチヨチ歩きの次男(1才)が、その柵の近くで遊んでいました。

突然「パチン!」という音が部屋に響き、大きな泣き声が聞こえてきました。振り向くと、次男が頬を赤く腫らして泣いていました。

私は咄嗟に「長男が次男の頬を叩いたのだ」と思いました。そして、「ほっぺた、叩いたの?!」と長男を問い詰めました。

長男は言葉に詰まった様子で、「…ドア(柵のこと)に、当たった」とだけ答えました。釈然としない返答でしたが、現場を見ていない私はそれ以上何も言えず、長男に「気をつけようね」と注意しました。

しばらく経ってふと気付くと、長男の姿が見当たりません。どこかで遊んでいるのかな?と思ったその矢先、寝室のドアが開き、長男が私の所にやって来ました。彼は目に涙を溜めて「…ごめんなさい」と言ってから、大声で泣き出しました。

「どうしたの」と尋ねてみると、長男は涙を流しながら告白しました。

次男が泣き出したのは、長男が叩いたからではありませんでしたが、次男が自分で柵にぶつかったからでもなかったのです。長男がふざけて柵を開けてしまったせいで、その柵に次男の顔が当たったのでした。

故意ではありませんでしたが、原因を作ってしまったのは、やはり長男だったのです。彼は寝室に閉じこもって、本当のことを話そうかと相当悩んでいたようです。そして、たとえ叱られても、話そうと決心しました。

悩んだ末に正直に話してくれた子供の気持ちを想うと、思わず涙が溢れました。しっかり話を聞かず、長男が叩いたと決めつけたことを心から後悔し、私も「ごめんね」と謝りました。

「弟に可哀想なことをしてしまった。お父さんに本当のことを話さなかった」
「黙っていれば叱られない。でも、僕はこのままでいいのかな?」
「叱られずに済むよりも、もっと大切なことがあるんじゃないのかな?」

瑞巌和尚が自らに問いかけたように、長男も自分自身に向かって「はっきり目を覚ませ!」「自分自身に騙されるな!」と問いかけたのでしょう。そして、その自己と向き合う健気な姿が、親である私にまで、清々しい気付きを与えてくれました。

まだ幼い長男の心にも、弟を思いやる思いやりの心、そして「何が正しいか」を判断する素晴らしい心が、ちゃんと具わっている。親の私が叱ったり教えたりしなくても、本来生まれ持った素晴らしい心のはたらきが、彼自身の「主人公」が、いつも生き生きと躍動している。そんなことを実感させられた出来事でした。


主人公の「主」という字は、「燭台(ロウソク立て)に灯がともった様子」を象っています。そして「公」とは、「私」だけでなく「全ての人」のこと。

全ての人の中に、この素晴らしい主人公、真実の自己が、光のように灯っている。そんな素敵な光景を想像することがあります。脇役やエキストラはいません。生きとし生ける全ての命が、自らの「主人公」として輝いているのです。

禅とは、この「主人公=真の自己」に気付くこと。そのためには、まずはしっかりと自分自身の心に向き合うことが大切です。

何かと周囲に流されたり、目まぐるしい社会に翻弄されがちな現代に生きていると、どうしても自分に嘘をついたり、自分を誤魔化したりしがちです。だからこそ、自己の足元に立ち返る禅の教えが必要とされているのではないかと思います。

禅を通じて、私たちがそれぞれに自分の中の「主人公」に気付き、日々の生活の中でそれを存分に活かして、誰もがいきいきと暮らして頂けたらと願っています。



(*1)瑞巌師彦:唐代の禅僧(年代不詳)
(*2)主人公:禅の語録、『無門関』《むもんかん》
       第十二則「巌喚主人」《がんしゅじんをよぶ》

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