「親見」~心の距離をなくすということ

谷川 光昭
2021/11/15

人間と人間。わたしたちはお互いどれだけ近い距離で直接会っていたとしても、わたしたちの間には必ずといっていいほど距離があります。それは、実際に物理的な距離が近いか遠いかということではなく、心に距離があるということです。

心に距離を生む要因は数知れません。社会的な立場や好き嫌いといった感情は、ご近所づきあいや仕事上の関係など、人と人との間にたくさんの距離を生んでいます。また、わたしたちはどこかでそのような適度な距離を望んでいることもあります。

自分と相手との距離を知るには、結局は自分の立ち位置がわからないといけません。つきつめて考えると、相手との距離を作ってしまっている原因は自分自身でしょう。自分が心地よい適度な距離を求めて、自分と自分の心の間にも距離を作り、へだててしまっているのではないでしょうか。


『無門関』という禅の書物があります。無門慧開《むもんえかい》禅師が後世の修行者のために四十八の公案(禅問答の設問)を編んだ公案集です。

この無門関に「親見《しんけん》」という短い禅語がでてきます。この親見とは「親しく見《まみ》える」「直接会う」という意味です。

無門禅師は、このように言います。

「者箇《しゃこ》の胡子《こす》、直に須《すべか》らく親見一回して始めて得べし」

「者箇の胡子」とは、禅宗の初祖と呼ばれる達磨大師のことです。その達磨大師の境地を本当に知ろうというのであれば、「一度直接会うことによって、初めて知ることができるのだ」と無門禅師は言うのです。

達磨大師の生まれた年などは詳しく分かっておらず諸説ありますが、一説には没年は西暦528年と伝えられています。そして、無門禅師は1183年に生まれ、無門関を著したのが1229年のことです。ふたりの生きた時代にはおよそ800年のへだたりがあります。それにもかかわらず、無門禅師は修行者に対して「達磨大師に直接会ってこい」と言うのです。

一体「親見」、直接会うとはどういうことなのでしょうか。

無門禅師は「人と人の間にある距離などすべて取り払って、心の距離をなくせ」と言っているのです。

禅では「思慮、分別《ふんべつ》を超える」ということを重視します。お互いにとって都合の良い距離であるとか、他人や自分と比べてどうであるかとか、好き嫌いや良い悪いなどの考えをすべて排して、心の距離をゼロにして、相手と、そして自分と向き合うことを禅師は伝えようとしています。

そうすれば、時間的距離や物理的距離を超えて達磨大師と直接会うことができるのです。無門禅師の伝えたい「親見」とは、この「心にへだたりのない接し方」なのです。

この語は達磨大師と何百年もあとに生きる弟子との関係の話ですが、親子の関係を考えるうえでも学ぶことは多いと思います。


わたしには、もうじき5歳と2歳になるふたりの子どもがおり、子育ての真っ最中です。つい最近、上の子どもがピアノを習い始めました。

まだ楽譜もよめず、人差し指でポロンポロンと鍵盤を押していくように弾いて練習をしています。決して上手とは言えませんし、ピアノの練習が嫌で逃走することもあります。最初の頃はじっと坐ることもできず、怒られていました。

しかし、妻はそんな子どものピアノの練習にいつも付き合っています。保育園へ行く前や休みの時には、となりに坐り手を取って、一緒に弾いています。妻がこんなにも根気強く、一緒に練習している姿には驚かされました。

彼女は、子どもにピアニストになってほしいとか、音楽の道に進んでほしいなどということは、全く思っていないと言います。「ピアノの前に坐って頑張っている子どものそばに、一緒にいてあげられるだけでいい」と思っているようです。

わたしは妻には言いませんでしたが、実は内心「そんなに長くは続かないだろう」と思っていました。

そんなある日のことです。わたしは、ふたりが一緒にピアノの練習に取り組む様子を見ていました。

真剣に子どもに向き合っている妻と、一生懸命にピアノを弾く子ども。肩を寄せ合い、お互いの気持ちや息づかい、手のぬくもりを感じながら楽しそうにピアノを奏でるふたりの姿には、「教える母親」と「教えられる子」という立場や、親子の間の距離などを感じさせるものは、まったくありません。

その時わたしは、とても大切なことに気付かされた気がしました。
いつの間にか、わたしとふたりとの間にあった心の距離が消えたように感じていました。


わたし自身、知らず知らずのうちに、ピアノを練習する妻と子どもとの間に距離を作っていたのかもしれません。

しかしあの時、ピアノを熱心に教える妻と一生懸命練習する子ども、そしてその姿を見守る自分、わたしたち家族3人の心には、へだたりなどありませんでした。

無門禅師の言葉を借りると、こう言い換えることができるでしょう。

「子どものことを本当に知ろうというのであれば、一度直接心にへだたりなく会うことで初めて知ることができる」

「親見」とは、まさにこの親子の心にへだたりのない、心の距離の近さであり、子育てに大切な子どもとの向き合い方だと思います。そしてそれは、自分自身の心に向き合うことにもつながります。

親と子だからとか、親にとって都合がいいからとか、子どもはこうあるべきだなどいう考えなど、余計なものをすべてなくして、ひとりの「人と人」として、心が通じ合う距離。

わたしはそんな、心にへだたりのない親子でありたいと思うのです。

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