今のところは【1】〜正しいということ
山田 真隆
2022/4/15
この連載は、松本市神宮寺様の寺報『山河』に掲載されたZENzine代表・山田真隆の記事を、谷川住職のご協力を得て転載したものです。
はじめに
『山河』をお読みの皆様、今号より谷川和尚様のご厚情で連載のご縁を頂きました、山田真隆と申します。出来れば長くこのご縁を続けていければと思っています。宜しくお願い致します。 連載のタイトル「今のところは」は、この連載を務めるにあたっての正直な私の想いです。というのは、皆様に自信を持ってはっきりとお伝えできるような禅の教えは、私にはまだありません。 中途半端な修行生活をして、生来の面倒くさがりで怠け癖のある筆者が、どれだけのことをここに書けるかは、甚だ自信がありませんが、「今のところは」分かったことや感じたこと、思っていることを拙いながらも少しでも皆様に披露できれば、という想いでタイトルを「今のところは」としました。 前置きはこれぐらいにして、今年4月に谷川和尚様や私を含めた有志の者で「禅人/ZENzine」というウェブマガジンを立ち上げました。この件は既に和尚様から皆様に伝わっていることと思います。 数あるZENzineの読み物の中でも、目玉の一つといえる仏教学者・佐々木閑先生のコーナー『閑先生のなんでもQ&A』があります。禅人読者の投稿された質問に先生が答えていく形の連載物で、質問には渾身の文章で先生が答えてくださることもあり、方々から好評を得ています。 2021年5月8日に更新された第2回の連載では、『煩悩は消せますか?』という質問に先生が答えてくださっています。 先生は答えの冒頭で「〈煩悩を捨てる〉というのは〈正しい判断の出来る人になる〉ということ」とまとめています。興味ある方はウェブサイトをご覧ください。 連載第1回記念ということで、禅だけでなく仏教全体の持つ大命題である、この「正しい」とは何か?について、「今のところ」私が考えていることを書きたいと思います。
”正しい”という間違い
多くの人が望む「正しい」という生き方。間違っていない、嘘でない、真っ直ぐな、と〝正しい〞にはそんなプラスのイメージがあります。 ブッダは「八正道」という八つの正しい行いによって、苦しみから救われると説かれました。 にもかかわらず、悲しいことに、正しい生き方が行われていないのは大昔も今も同じようです。すでに行われていれば、ブッダがことさらに説かれる必要はないのですから。 私たちが欲しながらも出来ない生き方が正しい生き方です。 多くの人は正しい生き方を望んで、それに向かって努力しているのに、世の中は全く正しくならない。そうしているうちに、人の世は住みにくいと、正しい生き方をすること自体あきらめてしまう。 すると、ブッダが説かれた、正しい生き方で、苦しみは消えるということは間違いなのでしょうか? いえ決して間違ってはいません。間違っているのは私たちの方です。正しい生き方をしているという思い自体が間違いなのです。 正しいという字は、元の意味が敵国に真っ直ぐに進撃することだそうです。私たちは、自分が正しいと思いこんだら、いつの間にか、他人の心に進撃して、傷つけているのかもしれません。 私たちはそうした間違った正しさを振りかざすことで、自分で世の中を生きにくくしています。ならば本当に正しいということはどんなことでしょうか? 詩人の吉野弘さんにちょっと変わったこんな詩があります。
「正」は「一」と「止」から出来ています。
『「止」戯歌』
信念の独走を「一度、思い止まる」のが
「正」ということでしょうか。
正しさを振りかざす御仁ほど
自分を顧みようという資質を欠いているようです。
正義漢がふえると揉め事がふえるのは
そのためです。
(「止」は本来「足」を意味する文字ですが、吉野さんはここでは単に「止まる」という意味に使っています。) 吉野さんの指摘の通り、正という字は、一と止が組み合わさって出来ています。自分が正しいかどうか、一度、思い止まってみることが、本当の正しさだということです。ブッダが、苦しみから抜け出す方法として示された正しい行いというのも、そういった意味で理解するべきです。 しかも、この正しい行いは、別に特別な人でなければ出来ないということはありません。正しいという間違いは誰もが起こします。ですが、その間違いを思い止まることも、誰でもできるということです。
“正しさ”は坐禅から
禅宗では坐禅をします。その坐禅も〝一度思い止まる〞ための身と心の訓練です。 昭和を代表する禅僧、山田無文老師は、坐禅について、
坐禅ということをなぜやるかというならば、その働きを完全にするために心をとどめる。飛行機が飛ぶことにたとえると、飛行機が完全に飛ぶためには、飛行機をよく整備せにゃならん。故障はないか、継ぎは弛んでおりゃせんか。油は切れとりゃせんか。ガソリンはあるか。飛行機をよく整備して、そこで飛び立つのである。坐禅ということは、いつでも心が動けるような整備をすることである。精神が充実していつでもどこでも働いていけるという態度が坐禅ということである。
『六祖壇経講話』
と、説かれました。飛行機が完全に飛ぶためには、隅々までよく見て整備しておく、でなければ墜落して大事故になります。 それと同じく、私たちが、本当に正しい行いをするには、身心の隅々まで整備をするつもりで、間違った「正しい」という思いを、一度思い止まることが必要です。 思い止まることは、心がどこにでも動けるような準備ということ。止まっていれば、そこから前進でも後退でもどちらでも動けます。前進の最中に後退しようとすると、無理がかかります。同様に後退の最中に前進しようとすると、これも無理がかかります。無理無く、いつでも動き出せるようにするには、一旦止まる・いわゆるニュートラルの状態にする必要があります。 私たちは常々、何か前進させよう、あるいは、それができないなら後退する、という二つの選択肢を思い浮かべます。ですが選択肢はその二択だけではありません。 前進も後退も出来ないときは、立ち止まる・ニュートラルにするという選択肢もあると気付けば、ものの見方も違ってくるのではないでしょうか。立ち止まって周りを見わたせば、普段見えないものが見えてくることもあるでしょう。それから前進か後退かを決めてもよいのではないでしょうか。 前進も後退もできない時は、一旦立ち止まって心をニュートラルにする。そうすれば心がどこにでも動いていける準備が出来ることを坐禅から学ぶことが出来ます。それは人生を墜落させない、本当の正しさを学ぶということです。 自分が正しいという奢りが、さまざまな苦しみを生み、世の中を生きにくくしている。その間違った正しさを一度思い止める、それが本当の正しい生き方につながり、苦しみから抜け出すことが出来る。 私の正しいについての「今のところは」という考えでした。
掲載:神宮寺報『山河』007
発行:2021年7月1日
編集:神宮寺住職 谷川光昭
発行:神宮寺花園会
長野県松本市浅間温泉町神宮寺3-21-1
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