今のところは【2】〜禅の時間
この連載は、松本市神宮寺様の寺報『山河』に掲載された禅人代表・山田真隆執筆のテキストを、谷川住職のご協力を得て転載したものです。(今回の記事は2022年・正月号に掲載されたものです)
時間について
一年の中で最も大きな節目といえるのが、数ある節目の中でもお正月でしょう。
言い換えればそれは、私たちの暮らしの中に流れる「時間」というものの大きな節目とも言えます。
今回は「時間」を通じて、禅の教えを見ていきたいと思います。
常に新しく
昨晨《さくしん》掃却《そうきゃく》す旧年《きゅうねん》の煤《ばい》
今夜錬磨《れんま》す新歳《しんさい》の䭔《たい》(餅の意)
根を帯ぶる松、葉を加ふる橘 還《ま》た新衣《しんえ》を着けて客の来を待つ
少し難しい言葉ですが、これは白隠禅師のものです。
文中の「昨晨」とは、昨日の朝という意味です。
昨日の朝には煤払いをして、今夜は餅つきをしている、松や橘を飾り、また新しい着物に着替えて客の到来にそなえる、というようなことが書かれています。
とはいえ、白隠禅師はこの文章を、お正月を迎えるためのハウツーものとして書いたわけではもちろんありません。実はこの文章は、『般若心経』に注釈を加えた『毒語心経《どくごしんぎょう》』という著作からのものです。
『毒語心経』は、『般若心経』中の語句について、一つ一つ解説していく体裁で書かれています。その中でも「時」という語句についての解説が、先ほどの文章です。
それは、白隠禅師が示す時間の見解ということであり、私たちがまさにお正月を迎えようとしているそのことがそのまま、時間と向き合うということになるのです。
時間とは、新年を迎えるように常に新しい気持ちでいること、というこの白隠禅師の教えは、思い込みやとらわれを離れて、私たちに新しい発見をもたらすものです。どんなに毎日見ているものでも、私たちはそのものを全部よく見ているかというと見ていません。
新しい発見をすることは、今まで見てきたものだ、十分知っているものだという思い込みを離れるところから始まるからです。本来時間とはそういう新しい発見につながるものであると、白隠禅師は示しています。
日日是れ好日
時間を、禅の教えから見た言葉として、「日日是れ好日」があります。
よく知られた言葉ですが、改めて触れると、中国唐代の名僧、雲門文偃《うんもんぶんえん》が弟子たちを前に「今までの十五日は問わない、これからの十五日をどう生きるのか?答えなさい。」と問うたところ誰も答える者がいなかったので、雲門自らが「日日是れ好日。」と答えたという話に因みます。
有名なだけに巷間さまざまな解釈がありますが、やはりこの「好」の字をどう意味を取るかが、この言葉を知る大きなカギになります。
「女」に「子」と書く「好」の字。これは母親が子を抱く姿を表すものです。母親が子のすべてを肯定して向き合うように、好という字にもそういった意味が込められています。私たちが普段好き嫌いとして使っている好からは、かなり意味が違っています。
「好日」となれば、「好い日」と考えがちですが、本来の好の意味で読んでいくと、「すべて好い日、悪い日は無い」ということになります。
私たちが好き嫌いをいう場合、その基準は自分に他なりません。そうなると、ここでも私たちは自分の思い込みで、大事な一日一日を好き嫌いで分けることになります。思い込みは新たな発見を妨げることは先ほども言った通りです。
その日にあった出来事がどんな可能性をもって、将来自分に迫ってくるかは、自分が死ぬまでわかりません。だから自分が生きた証である一日を否定することは、自分自身の可能性を否定することにもなります。
自分が生きた一日を否定しなければならない、こんな悲しいことはありません。 逆に、どんな日でも肯定して、その可能性の芽を摘まない、とすれば、こんな素晴らしい生き方はありません。
時間を使うか、使われるか
白隠禅師にしても、雲門禅師にしても、どちらも時間の解釈が、普通とは随分違っています。なぜそうなるのかといえば、時間に使役されないということだからです。
私たちは、いつの間にか時間と呼んでいるものに使役されている時があります。つまり使うべき時間に使われているということです。
あくまで生きる主体は、時間ではなく私たち人間です。人間が時間を使うということが本来のはずです。
そして人間が時間を使うことは、時間の値打ちを他の誰でもない人間自身、自分自身が決めるということです。
だから本当の時間とは、実は人間が生まれながらに持っているものであり、それは人間そのものなのです。両禅師の教えとも、そのことをよく示してくれていると思います。
一人の世界、一人の時間
これも中国の唐代の話です。
大隋法真《だいずいほうしん》という和尚に、ある僧が問います。
「世界が燃え尽きて灰燼に帰した時、悟りというものも世界と一緒に消えて無くなりますか?」と。大隋は、「無くなる」と答えました。
『碧巌録』第二十九則「大隋劫火洞然」本則抜粋
僧が問うた世界とは、この世界すべてのこと。
世界すべてが消えて無くなっても、悟りという真理だけは消えないであろうという思い込みが、こういった問いを生み出したのでしょうが、これはナンセンスではないでしょうか。
ここでもやはり、生きる主体が誰かということが抜け落ちてしまっています。つまり、この僧は悟りに使われてしまっているのでしょう。悟りというものを使って生きるのが人間です。ですが、世界すべてが燃え尽き、生きる主体である人間が居ないのに、悟りだけあっても間抜けです。
対して、大隋が答えた世界とは、人間一人一人の世界。一人の人間が、寿命尽きて火葬されて灰になったら、その人の世界、つまりその人が持っていて、その人を豊かにしていた、考えも知識も、もちろん悟りも無くなるということです。だけどそれでいいのです。
時間もそれと同じことが言えます。
一人の世界があるのなら、あくまで時間も一人のもの。だから時間は貴重なのです。そして時間をどう使うかはそれぞれの自由です。またその時間は自分自身に他なりません。
お正月という時間の節目に、禅の時間について、少しくですが皆様と考えることができました。
どうか皆様も私もお互いに、自分自身という時間を精一杯使っていく、そんな一年にしたいものです。
神宮寺報『山河』008
発行:2022年1月1日
編集:神宮寺住職 谷川光昭
発行:神宮寺花園会
長野県松本市浅間温泉町神宮寺3-21-1
http://www.jinguuji.or.jp